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遅れをとる日本のエイズ対策


保団連理事・杉山正隆


今アジアがもっとも危ない――こんな指摘が国連からなされました。先進国中、唯一HIV(エイズ・ウイルス)感染者が増加している日本では、4月に改正エイズ予防指針が施行され、都道府県など自治体が中心となってエイズ対策を行なうことになります。真の打開策となりうるのか、昨年、神戸で開催されたICAAP(アジア・太平洋地域エイズ国際会議)を中心に世界のエイズ対策の現状を見ていきます。

エイズは社会の弱さをついて今も拡大を続けています。HIV感染者は世界累計で7000万人に迫り、アジアでも中国、インド、ロシアなどで感染者が急増しています。わが国も「公式発表」で1万2000人に達するなど「危険水域に入った」との懸念が広がるばかりです。

 昨年7月に神戸市で開かれた第7回アジア・太平洋地域エイズ国際会議(ICAAP)では、アフリカや中近東を含め、75カ国から300人が集まったほか、ボランティアや市民ら2000人が会議をサポートしました。エイズをめぐるさまざまな問題をいかに解決していくか、熱心な議論が繰り広げられ、2004年末のインド洋津波で大きな被害が出たタイやインドネシア、スリランカからの参加者たちはこう表現し、エイズの危険性に警鐘を鳴らしました。

「津波もエイズも大きな被害が出るが、どちらも被害を最小限に抑えることは可能です。問題は対策が分かっているのに、なぜ実行しないかということです」

エイズ治療の世界格差が広がる

 WHO(世界保健機関)と国連合同エイズ計画(UNAIDS)によると、エイズにより2500万人以上がすでに亡くなり、2005年末現在、世界で生存中の感染者は推定で4030万人。このうち、アジア太平洋地域は830万人にのぼり、アフリカに次ぐ規模です。世界の人口の60%がこの地域に集中していることや、「流行はまだ初期段階」(尾身茂・WHO西太平洋地域事務局長)であることを考えると、感染拡大と死者は、今後急激に増加する恐れが大きいといえます。

インドは感染者が500万人をゆうに超し、中国でも100万人に迫る勢いです。ベトナムやインドネシアでも急増しています。UNICEF(国連児童基金)が会議中に発表した推計によると、これらアジアの地域で親をエイズで亡くしたエイズ孤児は約150万人。親のいずれか、両方が感染している子どもは350万人、子どもたち自身の感染が12万人にものぼります。エイズの蔓延により、青少年や子どもたちの生命、健康が脅かされています。

貧しさゆえにコンドームすら手にできない人がいる一方で、日本などでは女性がコンドーム着用を言い出せずに、夫やボーイフレンドから感染させられる例が増えています。そうしたさまざまなギャップをどう埋めるかが近年の課題です。

 エイズは人間社会のあらゆるギャップを浮き彫りにしました。根本的な治療法といえるワクチンなどはまだできていないものの、薬剤や治療法の進化で、生き永らえることは十分可能になりました。だが、年間100万円ほどかかる薬を買えないばかりに、みすみす命を落とす人が多いのです。

欧米の薬剤メーカーが特許などの知的所有権を独占しているためです。先進国では「命には代えられない」と手の届く金額だが、年間所得が100ドルにも満たないアフリカの最貧国や、所得格差の大きいアジアでは、せっかくの最新治療の恩恵に預かれない人たちが多いのです。

UNAIDSによると、発展途上国には、標準的な治療法「抗レトロウイルス療法」を緊急に必要とする感染者が600万人もいるといいます。

 WHOとUNAIDSは、2005年末までに、半数の300万人が治療を受けられるようにする「3by5」計画を03年から始めました。途上国で療法を受けている人は当初40万人だったが、現在は100万人以上になっています。WHOのジム・ヨンキムHIVエイズ局長は「計画通りには進んでいないが、2006年中の達成は可能だ」と話します。

 深刻さの増すアジアのHIVの流行について、UNAIDSは「未来に続く道は二つある」とする報告書を会議にあわせて発表しました。

一つは「これまでどおりの道」。はじめは治療が楽で安価で済むが、ほどなく感染者が急増し、2010年までに新たに1200万人がHIVに感染します。

もう一つは「断固として予防とケアを推進する」道です。こちらは、はじめはたいへんで金もかかるが、流行拡大に歯止めがかかり、新規感染者は600万人に抑えられる、といいます。

低い日本政府の意識と奮闘するNGO

先進国中、感染者が目立って増加し続けている唯一の国が、ほかならぬ日本です。厚生労働省エイズ動向委員会によると、2005年の新規患者・感染者は速報値で1124人。1984年に調査をはじめて以来、初めて年間1000人を超えた04年を上回る過去最高となりました。

UNAIDSが発表した2005年末現在の「HIV/AIDS最新情報」で、新規感染者の3分の1が30歳未満の感染で、若い男女の性行動の活発化と危険なセックスの増加について、警鐘を鳴らしています。

エイズ動向委員会が1月発表した直近のデータでも、新規感染者の約76%が20、30歳代。クラミジアや淋病などの性感染症が若者の間で蔓延している実態もあります。

中高年の現状も深刻です。HIVは、感染してからエイズの重い症状が出るまで10年近く掛かります。実数は公式発表の数倍に上るとみられるが、最近目立ってきたのが「突然エイズ」です。中高年の男性が10年ほど前に危険なセックスをし、感染したのに検査もせずに長い間気付かなかったケースが多い。

世界で感染者数が際立って少ないのがオセアニア地域。中でもオーストラリアは象徴的です。HIV流行の歴史が最も古いにもかかわらず、流行は小規模に抑えられてきました。同国では1983年から3次にわたる国家エイズ戦略を実施。男性同性愛者、セックスワーカー、注射薬物使用者、先住民族など「弱い立場」の人々に優先的に対策資金を投入しました。同時に、政策協定を結びNGOなどが自主的に対策を強力に推進することとしました。そして、例えば、麻薬の取り締まりより、清潔な注射針を無料で配布することで、法規制よりエイズ被害者の最小限化を最優先としたのです。「一部の逸脱者の問題」として、政府の本格的な介入が1988年までずれこみ、感染が拡がったアメリカと対照的です。

エイズ対策は国を越えた一大課題であることから、国際エイズ会議や地域会議には大統領・首相が出席し、首脳外交を繰り広げることが通例になっています。

ICAAP・神戸会議の開会式には当時の尾辻厚生労働大臣が紹介されましたが、実際には政務官がスピーチを代読し、会場からはため息が漏れました。中国やスリランカなどの閣僚級はICAAPに出席しましたが、日本政府の冷淡な対応に拍子抜けした様子でした。ある外国人参加者は「日本ではエイズは遠い外国の問題としかとらえてないのか」と皮肉りました。

政府とは対照的に、奮闘したのが日本のNGO(非政府組織)関係者たちでした。HIV陽性者でつくるJaNp+(ジャンププラス)の長谷川博史代表は開会式で「長い道のりの果てに、私たちは今ここにたどりつきました」と挨拶し、満場の拍手を浴びました。組織委員として会議運営に携わった長谷川さんは、行く先々で握手攻めにあい、「及び腰の日本政府の分までよく頑張ってきたね」などと声を掛けられていました。

開業・勤務の医師、歯科医師でつくる全国保険医団体連合会は延べ10人を会議に派遣。地元・兵庫県保険医協会も全面協力しました。保団連の担当者は「薬害エイズやハンセン病などは、対応が後手に回ったことが被害を大きくしてしまいました。その後もアスベストなど、『人災』が後を絶ちません。生命や健康を守る者として、積極的に支援していきたい」と意気込みます。日本医師会、日本歯科医師会なども後援団体に名を連ねました。

 HIVとの関わりがほとんどなかった企業の中にも、会議を支援する動きが出ました。口腔衛生用品や健康食品などを販売する「サンスター」は広報室を挙げて会議に参加し、展示ブースに出展したほか、メディアセンター運営に全面的に協力しました。サンスター広報室は、「エイズを取り巻く問題は多岐にわたります。企業としても社会の一員として何らかの協力をすべきだと痛感しました」と言います。

カネだけでなく実のある対策を

日本政府の取り組みはまったく不十分です。隣国・中国は感染拡大に歯止めをかけようと国を挙げて取り組みを始め、胡錦濤・国家主席がエイズ患者を見舞い、感染者と握手しながら対策強化を約束するニュースが大々的に報道されたりしています。国連高官は「中国は本気で取り組み始めた」と評価しています。

一方、小泉純一郎首相は、会議出席のために来日したピーター・ピオットUNAIDS事務局長(国連事務次長)に対し、5億ドルの追加支援を表明しました。だが、対外的に金を出せばすむ問題ではもちろんありません。

UNAIDSは4つの提言をしています。その一つが、政府の公約を行動に移すことです。2001年の国連特別総会で、各国は2003年までに国家目標を立て、2005年までに感染率をどう下げるかなどを具体的に定めることを公約しましたが、日本はまだ策定していません。会議の組織委員会事務局次長を務めた樽井正義・慶応大学教授は「日本は約束を実行すべきだ」と強調します。

「日本にはエイズ対策の基本となる『予防指針』はあるものの、1987年からの20年弱の間、エイズ対策関係閣僚会議は3回開かれただけ。HIV感染者がこれだけ増えているのだから、対策が成功したなどとはとてもいえない」

今年4月、ようやくその「予防指針」を改正し、都道府県に具体的な年間検査計画の策定を求めるなど、検査・相談体制の強化が決まりました。厚労省は自治体の実施状況を評価し、結果を公表する方針ですが、NGO関係者は「厚労省は5年に一度の定期的な改正に過ぎないとみているのではないか」と話します。地方に責任を押しつけるだけで、国として本気で取り組む意気込みも感じられません。

日本はエイズだけでなく、クラミジア、淋病なども不気味に広がりを見せています。オーストラリアですら、新規感染者数が増加傾向に転じつつあります。政府やNGO、国民が手を携えて予防や治療、感染者支援などに当たらなければ、わが国でもエイズが蔓延する日も遠くはないでしょう。

WHOは今年1月の理事会でHIVに関して新たな方針となる「ユニバーサルアクセス」を打ち出しました。「3by5」を引継ぎ、誰もが予防、治療、ケアを平等に利用できるように、との内容です。だが、先進国、途上国を問わず感染者への偏見や差別が根深く、「HIV対策の最大の障害だ」と危機感を募らせます。そして、各国政府やNGO、医療・教育関係者、マスコミなどに「迅速で継続的な」取り組みを強く訴えています。

国連首脳は、今後のエイズ対策が、感染するリスクの高い「弱いグループ」に焦点を絞っていく方向を繰り返し強調しました。このままでは、感染が爆発的に広がる恐れが大きいからです。

今年8月にはカナダ・トロントで3万人規模の「国際エイズ会議」が、2007年8月には次回のICAAPがスリランカのコロンボで開催されます。トロント会議のテーマは「約束を果たすとき」。感染が爆発的に拡がる前に、官民を挙げた取り組みができるかどうか、日本にも、アジアにも、残された時間は決して多くはないのです。