ブックタイトル医の倫理
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医の倫理
歴史を踏まえた日本の医の倫理の課題拶に行かなきゃいけんのか」というと、「篠塚は中国で洗脳されたな」ということになって、以来、部隊員に会う機会はなくなったそうです。た。そこで若松町を訪ねてみました。彼の自宅は今ではマンションになっています。大通りには昔ながらの古い床屋さんがあって、そこで店主に「石井さんはここに来ましたか」と聞くと「彼の髪も切っていた」というのです。そして「終戦当時は、今で俗にいうパンパン屋をやっていたよ」と答えたのでした。一体、どういうことだったのだろうと思って、石井の自宅近くの家に話を聞きに行くと、「石井荘とか若松荘とか、そんな看板があったね」というんですね。「間違えてうちに“ハロー”ってアメリカ人が入ってきたんですよ」と笑っていうんです。終戦まもなく米軍将校を自宅で接待ソ連から帰還した川島清同じように川島清も帰ってきました。あの頃、鳩首相の鳩山一郎が日ソ国交回復をして、ようやく抑留されていた何千人という日本人が帰られるようになりました。川島と柄沢十三夫はイヴァノヴォ州のラーゲリ(強制収容所)に移送され、そこに収監されていました。鳩山首相が日ソ共同声明を調印した翌日の晩、ラーゲリの中で皆で映画を観ていたそうです。そして終わったら柄沢がいない。一体どこへ行ったのかと手当たり次第調べたら、なんと、洗濯場の梁に首を吊って自殺していた。柄沢十三夫としては、自分の良心の呵責に耐えきれずに全部をソ連に話した末、そのために日本には帰れないと思って自殺するしかなかったのでしょう。ソ連から帰国した川島清は、柄沢の家族に手紙を書いて面倒を見たらしいです。川島自身は千葉県八街市の少年院の医員になったということです。石井四郎の戦後人生その後の石井四郎ですが、晩年には近くの月桂寺というお寺に通って、僧侶と禅問答に明け暮れたようです。その生活の様子が石井メモに細かく記されています。<石井は大地主にあらず、勤労所得者なり>こんなことも書いていますね。本当にごく普通の市民です。子どもの教育を心配してみたり、とにかく食べ物がない時代ですから食べ物をどうやって手に入れるか、また煙草をどうやって手に入れるかなど、いろいろ書いてあります。メモに書かれていないことで、私はある日、石井が自宅で旅館をやっていたらしいということを聞きつけまし私が石井メモで見つけた大きな発見は、石井がアメリカ軍情報部の将校6名を自宅に呼んで接待したという記述です。その晩のメニューまで細かく書いてある。それは2冊目のノートで1946年11月1日と書かれてあるのですが、文章をよく読んでいくと、実は1945年11月の日記だったことが分かりました。石井がそれをわざわざ1946年と書き変えたかどうかは分かりません。あるいは間違えたのかもしれませんが、とにかく1945年11月、表向きにはまだ行方不明だった頃、石井は米軍将校6名を自宅に呼び、接待をしているわけです。つまり、いかに闇が深いか。その深淵を覗き込む思いでした。一体、石井とそこまで親しくなっていた米軍情報部の軍人は誰なのか、日本人は関与していたのか。恐らく、日本側は、GHQに協力していた元参謀の有末精三だと思いますが、そういう人が間に立って石井を隠していたにちがいないのです。そんななかでGHQの将校と親しくなっていくと、将校から「ちょっと部屋貸してくれないか」という話になるのも頷けます。石井の家は結構広いですから、そういう話になったとしてもおかしくない。石井が満州にあれだけ巨大な細菌戦施設を建てた、いわゆる“マッド・サイエンティスト”であったことを考えると、何ともわびしい末路だったと私はつくづく思います。宗教に傾倒した石井四郎の晩年これは石井部隊長を囲んでの思い出写真です。昭和30年8月。若松町にあった石井四郎の自宅の2階大広間に部隊員が集まっています。恐らく最後の集まりでしょう。この4年後に石井四郎は亡くなっています。9