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医の倫理

歴史を踏まえた日本の医の倫理の課題には「これは永遠にやらなきゃいけない」と言う人もいるくらいです。過去の取り組みは歴史的なものですから、時期によって随分違うし、東と西とでも全然違っていたといえるでしょう。東ドイツはご存知のように社会主義、共産主義国ですから、発足直後からその前の歴史とは区分しました。自分たちは全く新しい国家をつくるということで、ナチを徹底的に排除した。その代わり要職に着けたのは共産主義者であり、共産主義者でありさえすれば過去のナチとの関係性をほとんど不問に伏しました。そして過去の責任を負わない立場をとりましたから、過去への取り組みも希薄だった。それに対して西ドイツは、「自分たちがドイツの歴史を継承する」と最初から宣言して東ドイツとの差異化を図っていきました。ただ西ドイツが今のような高い評価になるまでには、長い時間がかかっています。私は1980年代の半ば以降だと思いますね。転換点となったのは60年代です。当時は「何より駄目なドイツ」と呼ばれていたのです。過去を反省していないじゃないかとずっと言われ続けていたんですね。それは、被害補償であれ裁判での責任追及であれ、ナチ時代の過去に対する取り組みがいい加減で中途半端だったからです。ドイツは不都合な過去から逃げようとしていると諸外国から見られていました。西ドイツの変遷アデナウアーの二重戦略というのは、「西ドイツが国際社会に受け入れられるためにはナチズムを否定して民主主義国家をつくらないといけないが、他方で旧ナチ派も社会統合する」という考え方です。戦争末期にはナチ党員だけで800万人もいたわけですから、ある意味で仕方なかったかもしれません。こういう旧ナチ派を統合して政権基盤に入れながら、アデナウアー政権は14年間も安定政権を維持しました。ですからこの時代は過去をまだ本当に引きずっていた。だから「何よりも駄目」と言われたのです。ところが60年代頃から徐々に変わっていきます。歴史学ではこの時代を「長い60年代」と言いますが、50年代の末から70年代の初頭にかけて、いろいろな動きが出てくるのです。68年運動やブラント首相の登場、東方外交などはその代表ですが、それ以外にも過去への取り組みを促すようなアウシュビッツ裁判がフランクフルトで行われました。そして世代交代に伴い、「過去をこのまま過ぎ去らせない」と過去を直視する風土が新しい世代によってつくられていくことになります。ですから、プロセスとして過去の克服を見る場合は、60年代以降にどのように発展していったのかを見ないといけません。70年代はヒトラーブームが起きて、ある意味ヒトラーを肯定的に捉える人たちも出てきました。70年代80年代というのは行きつ戻りつなんですね。68年世代が過去と決着をつけようとしない親の世代を責め、それによって確かに変化が起こり、ブラントのようなナチ時代に抵抗運動に身を投じたような人が首相になっていきます。キージンガーのように、元ナチ党員でも首相になれるというのが60年代半ばのドイツでした。それが次第に変わっていったのが70年代、80年代。85年のヴァイツゼッカー大統領の終戦40周年記念演説は非常に有名ですが、80年代には歴史認識を巡って非常に活発な議論が行われ、ヴァイツゼッカーに反対するような意見も強かった時期でした。世代交代と人権感覚の成長それに決着をつけたのが、なんといってもドイツの統一です。1989年、90年のドイツ統一でこの流れが不可逆点を超えたと言ってもいいと思います。ドイツの統一に当たっては、過去の問題にきちんと向き合うことが諸外国の理解を得るために必須の要件でした。当時はフランスでもイギリスでも、ドイツに第4帝国が出現する可能性を本気で語っていた時期ですから、そんなことは決してないということを示す必要があった。そしてヨーロッパ地域統合の要として、ドイツがこれから役割を果たすということも言わなければいけませんでした。そこで過去との関係をきちんとするという方向性が打ち出されていくわけです。戦後ドイツの過去に対する取り組みを全体としてみると、それは戦後ドイツの民主主義の発展・成長のプロセスだったと言えると思います。つまり、「何より駄目なドイツ」と言われていた時期は過去の人権問題をきちんと認めていなかった。たとえばユダヤ人に対しては補償しても、それ以外の集団に対してはほとんど補償してきませんでした。「彼らはもともと迫害されるべくして迫害されたのだ」という論理が、50年代はまかり通っていたのです。それを見直し、若い世代の人権感覚が成長することによって、過去の出来事に対する評価も変わってきたということです。27