ブックタイトル医の倫理

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概要

医の倫理

歴史を踏まえた日本の医の倫理の課題それを再現しようとペーター・ヴァイスという作家が描いた「追及」というタイトルの劇作です。このような形で裁判をいわば演劇作品に再構成して人々の意識に訴えるということが行われました。このアウシュビッツ裁判の前後、60年代が非常に重要だという理由は、この時期に時効を巡る議論がピークを迎えるからです。時効論争は4回ありましたが、特に1965年のものが一番重要です。もしこの時、謀殺罪が時効を迎えていたら、その後の過去の克服の歩みはなかったでしょう。つまり過去の克服の重要な2つの柱の1つは、この時、時効が成立していたらそこで終わっていたということです。それにはもちろん世論や国会議員の議論がありました。国会で同時中継が行われ、皆が関わって自分の議論を展開していった。結局、政府はもともと時効を成立させるつもりだったのですが、同じ与党の保守系の若手議員の中から異論が起き、それに連動するような形で時効を成立させないという方向に流れていきました。まず4年間延ばして、後には更に10年延ばすと。そしてシュミットの時代の1979年になると、もう時効は撤廃するという形になったのです。こうして時効が撤廃されているために、今でも補償が行われています。過去の克服の重要な柱の1つは、こうやって現在までつながっているということです。歴史学者による裁判協力裁判にはもちろん限界もあります。一度判決が出ると、その事件については二度とやりませんから、後で新しい資料が出てきても、それを参考にもう一度検討し直すということはないわけですね。また裁判というのは、個々の人間が有罪か無罪か、あるいは量刑を決めるわけですから、全体像については非常に単純な理解で構成されています。そういう限界はありますが、一方で大きな意義もあったと思います。それは、たとえ小さな事件であってもドイツの国民があの時代どういうことに関わり、何を犯してしまったのかという具体的なことが分かってきたことです。これには歴史学者が非常に協力的でした。彼らの協力を抜きに裁判は実現しなかったし、時効を延長することも困難だったと思います。実はドイツで最初に出たホロコーストに関する詳細な研究は、アウシュビッツ裁判に歴史家たちが提出した鑑定書や意見書なのです。意見書がホロコースト研究の道を開いていきました。補償法から排除された人々を救う取り組み補償は先ほど言いましたように、西側連合軍の圧力で始まりました。それについて、日本では次のように指摘されることがあります。日本は賠償で事を決着させたわけであって、それで決着済みだと。ドイツは賠償を支払わなかったかわりに補償をしただけだ、と。私が注目したいのは、補償思想の深化というか、戦後初期に始まった補償政策の不備を、戦後世代の手で克服してきた取り組みです。つまり1956年に制定された連邦補償法は政治的・人種的・宗教的な理由で迫害された人だけを「ナチ不法」の被害者とし、安楽死殺害や強制断種の犠牲者は対象から排除したのです。彼らは人種衛生学(優生学)的な根拠で迫害されたに過ぎないというわけです。ところが、後の世代がこれでいいのか、議論を提起しました。つまり連邦補償法から排除された人びとを救う努力が、過去の克服のひとつの流れとなります。1980年代初頭、若い医学者たちがナチ時代の医学犯罪を取り上げ、社会的なテーマにしていきます。85年のヴァイツゼッカーの有名な演説では、ナチ時代に迫害された少数派グループの名称をいくつも挙げました。そのほとんどはまだ補償されていませんでした。80年代から90年代にかけて、忘れられた犠牲者が「再発見」され今日につながっていきます。近年、ドイツは強制労働の被害者、世界の166万人に個人補償を行いました。強制労働は、戦後のドイツでも、ながらく「戦争の随伴現象」で、ナチ不法にはあたらないと言われてきました。その認識を1998年に誕生したシュレーダー政権は改め、ナチ不法のひとつと認め、補償に踏み切ったのです。こうした補償対象の拡大は、世代が変わり、市民社会が発展し、民主主義や人権感覚が成長する過程でもありました。ドイツの評価と補償基金ドイツが過去の克服で今日のように高く評価されるようになったのは、この強制労働補償基金を通してです。基金の設置の背景には、90年代の半ばになって、強制労働の被害者集団が各国で声をあげ、それに在米ユダヤ人団体が呼応してアメリカでドイツ企業と政府を相手どった集団訴訟、ドイツ商品不買運動が起きたという事情29