ブックタイトル医の倫理
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医の倫理
歴史を踏まえた日本の医の倫理の課題篠塚さんは細菌戦裁判で証言した唯一の部隊員でした。細菌戦裁判というのは、1997年に180名の中国人犠牲者が日本政府を相手取って損害賠償を求める訴えを起こしたものです。その判決が出るまで5年もかかっているのですが、結局、日本政府としては損害賠償はしないという判決になりました。ただし、事実認定はしたんですね。事実として日本の細菌戦部隊があり、実験をして、中国や朝鮮の方、あるいはロシアの方に非常な迷惑をかけたということはその裁判で事実認定されていまあおき青木ふ冨き貴こ子氏(ジャーナリスト・作家)「731石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く」(2005年/新潮社刊)執筆者、ニューヨーク在住「加茂にとっては神様、生活に困る人をみんな満州に送って、お金を仕送りさせ、暮らしをささえたんです」ということです。私が取材をはじめた15年前というと、まだ戦争を知る世代が健在だった頃です。部隊員もずいぶん亡くなっていましたが、まだ健在な方も多かった。『悪魔の飽食』を書いた作家の森村誠一さんがこの本を出された頃、随分、テレビ局が加茂に入ったそうですが、石井四郎に口止めされていた村人たちはそれを頑に守って、絶対に話をしようとしない。ところが、それから20年くらい経って私が出かけてみると、石井家跡地の近くの農家の方が非常に気持ち良くいろいろと教えてくださいました。そうやって石井家からのびる蔦を辿るうち、石井四郎の身の回りの世話をしていた女性に会うことがきたのはラッキーでした。私が東京・大森のお宅に伺うと、長男がちょうど私と同世代だったのです。彼が「4歳か5歳の頃に、石井四郎はスイカを持ってうちに遊びに来ていましたよ」というのです。そうこう話をしているうちに、「うちに彼の書いたノートがあったけど、どこかへ行ってしまった」という。まさか石井四郎直筆のノートなんてあったのかしらと私は信じられない思いで、「もしありましたら是非ご連絡ください」とお願いし、その時は帰ってきました。731少年隊員の軌跡もう一人、731部隊について私がいろいろと教えていただいたのが篠塚良雄さんです。彼も本当にいい方で、少年隊で行った頃のことをいろいろ話してくださいました。す。篠塚さんも千葉にお住まいです。「満州に連れて行かれたきっかけは何だったんですか?」と聞くと、昭和14年、15歳の時に学校で募集があったというんですね。部隊長は千葉の人で、面倒をみてくれるらしいと。昭和14年というと本当に軍国主義一色の世の中で、学校に行くと配属将校に殴られるという時代だったそうです。ですから、そういう部隊があるのなら満州に行った方がマシだと思って、彼は募集し合格したわけです。平原にそびえる一大施設当時の少年隊の隊員は30名くらい。下関から釜山へ、釜山から朝鮮半島を上陸して満州のハルピンまで送られました。731部隊がある平房の町は、当時、ひとっ子ひとりいない平原だったそうです。その一本道をひたすら走っていくと、鉄条網の塀が見えてきた。やがて、忽然と真新しい建物が現れたといいます。そこでようやくバスが停まると、こんな標識があったそうです。「何人といえども関東軍司令官の許可なくして柵内への立ち入りは厳禁に処す」。それをみた15歳の少年だった篠塚さんは、「これは一体どんな部隊か」と思ったということです。新しい建物のなかの7号棟と8号棟の細菌工場は「ロ号棟」と呼ばれ、捕虜を使った人体実験が行われていました。篠塚さんはノモンハン事件の時に細菌兵器を運ぶ仕事をしたり、人体実験の手伝いをさせられた時もあったそうです。その後、真珠湾攻撃で開戦。少年隊が解散すると、第4部製造の第1課にまわされました。当時の731部隊には、第1部研究、第2部実験、第3部防疫給水、第4部製造があり、第4部の製造は細菌兵器を製造するところでした。部長は川島清少将。篠塚さんの上司に当たるのは、柄沢十三夫という医者でした。柄沢十三夫は長野出身。柄沢家では長男が早生したために男の子どもを待ち望んだそうですが、次に産まれた次男はなんと13番目の子どもだったので、十三夫という3