ブックタイトル医の倫理

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医の倫理

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医の倫理

特別講演・731部隊の戦後と医の倫理名前を授かったそうです。極貧から身を起こしたのですが、とにかく優秀だったのでしょう、東京医学専門学校に行っています。石井四郎の家族と出世道千葉県の加茂を訪ねた後、半年ほど経った頃、石井四郎の身の回りを世話したいたあの女性の長男から連絡がありました。「ノートがでてきました」というのです。私はまさかと思いましたが、早速、ニューヨークから駆けつけ、長男からノートを2冊、震える思いで受け取りました。直筆のノートに間違いありませんでしたが、明治の人の字ですからものすごく読みにくくて、今でも全部読めているとは決して言えません。たいへん難解なものでした。ここで石井四郎に関してお話したいと思います。石井家の長男の虎雄さんはたいへん優秀だったらしいですが、日露戦争で戦死されています。次男の健男さんと三男の三男さんの2人は体が小さくてごく普通。ところが四男の四郎は大きな体で、非常に優秀でした。金沢の旧制第4高等学校を経て、京都帝国大学医学部を卒業しました。そして陸軍軍医学校へ進んだ。当時陸軍軍医学校に入れるのはほんの少数のエリートだけで、全国の医学生のなかでたった100名足らずだったそうです。その後、近衛歩兵第3連隊などを経て、陸軍から京都帝国大学大学院へ送られました。これは内地留学と呼ばれ、出世コースに乗ったということだそうです。陸軍が石井を大学院へ送った目的は、「細菌学、血清学、予防医学、病理のための研究」でした。石井四郎というのはなかなかユニークな人で、村人は「幼年時、無口で一般の子どもとは変わったところがある」と言っていました。陸軍に入ってからは、松村知勝参謀副長がこういっています。「石井四郎軍医中将は、かつて陸軍に石井という気狂い軍医がいるといわれた。剛毅果断で宣伝上手な実行力のある軍医である」と。よほど実行力があって、宣伝が上手かったようです。いろんなプレゼンテーションをして参謀本部を口説き落とし、後にあれだけの一大施設を満州につくり上げるのです。当時の京都大学には、荒木寅三郎という高名な学者がいらっしゃって、総長をしていました。進取の気風に富む京都帝国大学の柱であり、その温厚な人柄と開明的な思想が医学生の間で大変人望があったそうです。その荒木先生がいるから東大ではなく京大へ行くという学生も多かったらしいです。石井四郎は荒木先生のお宅へお邪魔しているうちに、娘の清子さんに目を止め、結婚をしました。東男と京女の結婚という形ですね。ヨーロッパ旅行から濾水機開発へ1925年、化学兵器と細菌兵器の使用を禁じるジュネーブ議定書が締結されました。しかしその裏で石井は「条約で禁止するほど細菌兵器が脅威であり、つまり有効というなら、ひとつこれを開発しない手はない」と考えたそうです。この頃、石井は2年間の不可解な長期海外旅行に出ています。いわゆる軍医の留学とは違って、ヨーロッパの国々をまわるんですね。帰国後に、「最強諸国が細菌戦の準備を行っており、もし、日本がかかる準備を行わなければ、将来戦において日本は大きな困難に遭遇するであろう」といって日本陸軍省および参謀本部の幹部たちに説いてまわったのです。資源の不十分な日本でもできる「新兵器」という言葉に幹部は魅了され、それならお金を出そうと動いていきます。1932年、防疫部の地下室に「防疫研究室」が造られ、石井は濾水機の開発を進めました。戦争というのは弾に撃たれて亡くなる兵士より、病気で亡くなる兵士の方がずっと多いわけです。そこで戦地で一番大切になるのは安全な水を確保すること。そのためには濾水機が必要なので、石井はまずその開発によって軍の信頼を得ていきます。総合医学研究施設の構想と共に1936年、背陰河(ベイインホー)というところで、石井部隊の前身となる「東郷部隊」を発足させます。ハルピンの平房(ピンファン)というところに広大な土地4