ブックタイトル医の倫理

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医の倫理

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医の倫理

歴史を踏まえた日本の医の倫理の課題を購入。1940年には1000万円という年間予算が組まれています。すごいお金です。石井は、「ロックフェラー研究所」や「パスツール研究所」のような総合医学研究施設をつくりたいと考えました。しかし一方で、最も肝心なのは、「内地でできないことを行うためには満州の北端に行けばいい」と石井が考えたことです。国内ではとても倫理的に許されないことが満州の奥に行けばできる、つまり人体実験ができると考えたのでしょう。そうした言葉につられたのでしょうか、あるいは行きたいくないという医者もいたかもしれませんが、京都帝大医学部から助教授や講師クラスの若い優秀な研究者が軍属の技師として派遣されることになりました。病理の石川太刀雄丸、解剖の岡本耕造、チフスの田部井和、コレラの湊正男、凍傷の吉村寿人、翌年には第2陣としてウイルスの笠原四郎、天然痘の貴宝院秋夫、結核の二木秀雄などが到着。彼らが第1部研究班の班長になって、それぞれの研究を進めていきました。また、後に「ミドリ十字」を設立する内藤良一は、東京の「防疫研究室」に残り、「石井機関」と呼ばれるほどに広がった防疫給水を含むネットワークを総括していた様子です。野口医師との出会い私が731の取材を始めた頃、生存していた数少ない731部隊の軍医のひとりが、名古屋で産婦人科医をしていらっしゃった野口医師でした。私は何度もしつこくお電話をして、ようやく会っていただきました。その野口さんからいただいた写真がこれです。映っている方々が誰なのかを伺ったところ、名前を書いてくださいました。一番右に立っていらっしゃるのが野口さんです。吉村寿人、石井四郎の右腕だった増田知貞、湊正男もいます。野口軍医は、後にミドリ十字をつくった内藤良一の指導のもと、第4部第2課、野口班をつくって、満州で乾燥人血漿のプラントをつくる仕事を任せられたと言っていました。要するに保存できる血液をつくっていたということです。細菌戦からペストノミの大量生産へこうして1940年、浙江省寧波、金華、玉山などの都市へコレラ菌やチフス菌の散布が行われました。しかし、上手くいかなかった。そこでペスト菌に感染したノミを寧波や金華に投下していきました。石井はペストノミを使った作戦の成功に大いに満足し、記録フィルムを作製。軍隊内で大々的に宣伝する一方、ペスト菌をそれ以降の大規模な細菌作戦の兵器として選んだわけです。それでペストノミの生産能力の拡大に力を入れるようになりました。その後、常徳でペストノミを1000メートル上空から投下。1942年には浙かん作戦などやっていくわけですが、この頃、一時的に石井四郎は異動になって東京に帰ります。その後、731部隊の二代目の隊長として送られたのが北野政次。しかし、1945年3月には戦況が悪化、石井が部隊に戻りました。石井は着任後、熱弁をふるってこういったそうです。「6月から8月にかけて、天下分け目の大激戦が予想される。その時には日本本土へのアメリカの上陸作戦が予測されるので、われわれも最も綿密にアメリカおよびソビエト同盟に対する戦争に備えなければならない」「戦況は悪化しつつある。春の末、あるいは夏に日本の好転を期して、細菌兵器を含む最後の手段を用いなければならない」そこでペストノミをつくるためのネズミの増殖を命令し、「9月までに300万匹集めろ」という話になるわけです。下された証拠隠滅命令ところが、8月6日、ソ連が満州に侵攻。予想していたよりずっと早かった。陸軍省としては細菌兵器こそが起死回生の秘密兵器だったはずなのに、ソ連の侵攻が予想をはるかに上回るスピードだったので、目にも止まらぬ早さで、平房の一大施設を撤収・撤去作業を余儀なくされた。無用の長物になった部隊の施設、細菌工場やロ号棟などの証拠をすべて灰にして撤去しなくてはならなくなったのです。5