ブックタイトル医の倫理

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医の倫理

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医の倫理

特別講演・731部隊の戦後と医の倫理その後の石井の足取りは、これまで全く掴めていませんでした。ところが、私が発見した石井の「終戦当時メモ」にはその時の詳細が見事に描かれています。関東軍に見放され、辛苦をなめたおよそ100万人の避難民に比べると、石井部隊がいかに手際よく撤収したか、石井メモにディテールが記録されています。<8月8日、ソ連軍対日宣戦布告。12班の破壊><8月9日原子爆弾><関東軍より電報><8月11日、新京より軍司令官統治訪問>東京の参謀本部から朝枝繁春参謀が来て、新京の軍用飛行場の格納庫で石井は朝枝参謀と1時間立ち話をしました。当時、朝枝は33歳、石井は53歳。20歳も下の参謀に命令されたのです。「貴部隊は全面的に解消し、部隊員は一刻も早く日本本土に帰国させ、一切の証拠物件は永久に、この地球上から雲散霧消すること」「このために工兵一個中隊と爆薬5トンを配属するように手配済み」と朝枝参謀は言い、更に次のような命令を下しました。「建物内のマルタ(捕虜)は電動機で処理した上、貴部隊のボイラーで焼いた上、その灰は全て松花江に流し捨てること」「職員は婦女子こどもに至るまで、満鉄で大連へ輸送の上、内地に送還すること」最後には金沢に集まろうこの時、石井は振り返り「研究データだけでも持ち帰ってはなりませんか?」と食い下がったといいます。しかし、若い参謀は言下に却下しました。医者にとって精魂込めてつくったデータほど大切なものはないのでしょう。しかし、石井は参謀の言う事を聞かず、データばかりでなく、濾水機やワクチンまでもそっと持ち帰るが石井メモに記されてあります。それが後年、米軍との取引で石井たちを後に救うことになるのです。石井は飛行機に乗って、破壊した平房の写真を撮り東京に届け、再び戻ってきて撤退する部隊員を指導していたようです。これは私が野口医師から聞いた話ですが、平房を出る時、軍医たちの間で「最後にはどこに集まろうか」という話になったそうです。それで「京都が一番よいけれど、ちょっと危ないから金沢にしよう」ということになった。金沢には石川太刀雄丸もいるのでここに資料を送ろうと。それで実際に皆、金沢に行っています。こうしてついに進駐軍が上陸、マッカーサーがコーンパイプを手にして厚木飛行場へ降りてくるわけですが、その時マッカーサーは「ジェネラル石井はどこにいるか?」と言ったという説があります。これは石井のお嬢さんの春海さんが誰かから聞いたという話です。マッカーサーも上陸した日から、731部隊の研究を手に入れたいと思っていたのでしょうか。内藤良一とサンダースリポートその後、米軍はメリーランド州フレデリックにある細菌戦基地「キャンプ・デトリック」から医師を派遣してきました。マレー・サンダースという医師が横浜の埠頭に着いた時、「ドクター、サンダース」と声を掛けてきたのが内藤良一です。彼はサンダースの写真を手に、本人を見極めながら声をかけてきた。つまり、誰かが裏で手を引いていたということです。誰かがサンダースの写真を持たせて「迎えに行ってこい」と言ったのか。私が米国公立公文書館に何度も通って資料を集めたところ、内藤良一は1941年にロックフェラー研究所を訪ねています。Dr. Ryoichi Naitoが黄熱病ウイルスのアシビ株をもらいに来たという非常に詳細な報告があります。当然アメリカは「日本の軍医がものすごく強い黄熱病ウイルスをもらいに来た、一体これは何だ?」と驚き、いろいろ検討した末「これは日本が細菌戦を研究している証拠だ」という結論を出した。そこで、キャンプ・デトリックを開き、急遽、細菌兵器の開発を始めたわけです。サンダースはその中の一人の専門家として送られてきたのですが、731部隊について事前の知識は何もありませんでした。それで「部隊の解明には、東京裁判で戦争犯罪に問わないという免責を約束しない限りうまくいかない」とマッカーサーに頼みこみます。マッカーサーもこれをきいて頷くのです。一方、内藤には「このままで6