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TPP参加の狙いと国民生活……国民皆保険制度が崩壊の危機に

萩原 伸次郎(横浜国立大学教授)
(『全国保険医新聞』2011年4月15日号掲載)


例外なき、関税ゼロと非関税障壁の撤廃
  昨年10月1日、菅総理大臣の所信表明演説、「TPPへの参加を検討する。それを、明治維新、第2次世界大戦での敗戦に次ぐ第3の開国の機会にする」という内容の発言以来、TPPをめぐってさまざまな議論が行われている。
  TPPに参加すれば、例外なくすべての品目が関税ゼロになる。いまでも、貿易自由化で経営が立ちゆかなくなっている農業経営は、TPP参加によって、コメ、牛肉、乳製品、砂糖、小麦、大豆その他、ほぼ壊滅的打撃を受けるだろう。わが国の食料自給率は、カロリー・ベースで13%にも落ち込むという。
  もちろん、食料に関しては、自給率だけの問題ではない。貿易の自由化を円滑に進めるということで、衛生植物検疫措置や貿易の技術的障壁といわれる、非関税障壁が取り払われる可能性がある。
  前者では、例えば、狂牛病にかかった牛肉輸入を阻止する規制措置、後者では、例えば、遺伝子組み換え食品の義務的表示が、非関税障壁として、それぞれ挙げられているからだ。

オバマ大統領の 「輸出倍増計画」
  TPP参加賛成論者は、「資源に乏しい日本は通商国家として生きるしかない」(『朝日新聞』2010年12月20日社説)などと言って、輸出産業の利益を強調する。しかし、これは、全く見当違いの議論だ。
  なぜなら、いまTPPに新たに参加しようとしているベトナム、マレーシア、ペルーと日本は、既に自由貿易協定(FTA)を結んでいる。オーストラリアとは、現在交渉が進行中である。
  残るは、米国である。しかし、TPP締結により、米国に輸出を伸ばすことができるというのは、時代錯誤も甚だしい議論というほかはない。なぜなら、米国の工業製品の関税率は極めて低いし、自動車をはじめ多くの対米輸出産業は、貿易摩擦を回避するため、在米現地生産を行っているからだ。
  しかも、今輸出を伸ばしたいのは米国の方であり、オバマ大統領は、昨年の一般教書演説で、「米国はこの5年間で財・サービスの輸出を倍増する」と言っている。
  そのためには、2009年1兆5700億ドルの輸出額を、2014年末までに、年間3兆1400億ドルのレベルにまで引き上げなければならない。
  米国が輸出を増大させるには、内需拡大の著しい国を探さなければならない。世界を見渡せば、そうした地域は東アジアに存ンしている。中国、インド、東南アジアなどの新興工業諸国がそうした国々だ。
  今年の「大統領経済報告」では、だから、次のように述べられている。
  「わが政権は、環太平洋パートナーシップ協定を通して、アジアの国々が米国の輸出業者に市場開放し、貿易障壁を取り除くことを説得すべく努力することに力を注ぎたい」(Economic Report of the President 2011, Washington, D.C., GPO, P.106)。

米国が狙う日本の「医療市場」
  それでは、TPPにもし日本が参加しようとすれば、米国は日本にどのような要求をしてくるだろうか。
  既述のように、農産品の例外なしの関税ゼロ、また非関税障壁の撤廃はいうまでもない。さらに、ここで私たちが注意しなければならないのが、TPPでは、サービス貿易の自由化がうたわれていることである。
  とりわけそこで、重要だと思われるのは、医療分野である。これは、年次改革要望書のときから米国がしつこく要求してきたことだ。
  『2010年外国貿易障壁報告書』では、次のように述べられている。
  「日本の医療市場は世界最大の一つである。しかし、こうした市場規模にもかかわらず、世界で多く使われている医薬品と医療機器が、日本ではいまだ導入されていないことがある。
  それは、日本における規制によるもので、ほぼ4年の遅れがある。しかも、日本の薬価は、低すぎる。米国やイギリス、フランス、ドイツより、1・5倍から1・7倍に引き下げようとしており、こんな安い薬価では、米国が新薬の開発を行うなどとてもできない。これは、いずれも日本の規制のせいである。革新的な医療機器や医薬品の開発、導入を妨げる規制的な価格政策の実施を慎むべきだ」と、米国政府は言っている。
  さらに、米国は、日本における医療サービスについて次のように言う。
  「制限的な規制が医療サービス市場への外国からのアクセスを制限している。米国政府は、引き続き日本に対して、このセクターを外国サービスに開放し、商業企業体がフルサービスの利益追求型の病院を、(日本の経済特区を通じて)提供できる機会を認めるように求める」(『2010年外国貿易障壁報告書』より)。

医療に市場原理が入ることの意味
  米国の要求は、日本の医療分野に市場原理を導入することである。
  TPPに日本が参加しようとすれば、医療は紛れもなくサービス分野の貿易だから、米国の要求を拒否することはできない。混合診療の全面解禁か轣A自由診療の領域を広げ、公的健康保険に基づく日本の国民皆保険制度が崩壊していくだろう。
  医療法人への株式会社の導入、薬価も自由市場に任せることになれば、製薬資本の意のままになる価格設定方式が導入されるだろう。今でも高い国民健康保険料を支払うことができず、また診療費の自己負担が高く、適切な診療を受けることのできない多くの人たちがいるのに、TPPに参加すれば、この傾向に一層拍車がかかることは間違いない。
  ところで、私たちが注意しなければならないのは、こうした米国の要求が、日本の財界の要求と合致して進んでいることである。それは、経団連の成長戦略をそのまま引き写した、昨年6月の政府による『新成長戦略』に載っている「ライフ・イノベーションにおける国家戦略プロジェクト」に明らかだ。
  とりわけ、国際医療交流という戦略は曲者だろう。なぜなら、外国人看護師・福祉介護士などの受け入れは、当然、医師、医療関係職種の国際移動へと進むからだ。クロスライセンスなどによって、医療関係者が国境を越えるのは結構なことのように見えるのだが、当然、条件のいいところに医師の偏在が起こる。条件の悪い過疎地の医療は崩壊するだろう。
  国際医療交流と称して、海外の富裕層の患者を受け入れる『新成長戦略』のライフ・イノベーションにおいては、何が考えられているのだろうか。
  そこでは、日本の高度医療および健診に対するアジアトップ水準の評価・地位の獲得などを成果目標に掲げている。しかしこうした方向に進めば、日本の医療の市場化が徹底され、儲かる自由診療が優先され、公的保険で受診する日本人の診療などは後回しにされてしまうことになる。
  日本の高度医療で外国人患者を引き受けて、何がライフ・イノベーションなのか。医療の市場化、言い換えれば、儲かる医療をめざす、ライフ・イノベーションは、日本の国民皆保険制度を根本から崩壊させる危険性をはらんでいる。
  TPPへの日本の参加とは、そういう影響を国民生活に与えるということなのだ。

はぎわら・しんじろう
  1947年京都市生まれ。1990−91年、米国マサチューセッツ大学経済学部客員教授。2000‐02年横浜国立大学経済学部長。現在、横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授。