3.1ビキニデーで核兵器廃絶を誓う
2月28日から3月1日にかけて、2013年3・1ビキニデー関連の多くの集会や行事が行われました。
1954年3月1日未明、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で、アメリカが水爆実験を行い、静岡県焼津港を母港とする第五福竜丸の乗組員23人が放射能の「死の灰」を浴びて被曝しました。同年9月23日に無線長の久保山愛吉氏が亡くなったことをきっかけに、日本では核兵器反対の声が広がり、原水爆禁止署名は1年余で有権者半数の3400万人が集まり、翌55年には第1回原水爆禁止世界大会が開催されました。以来、毎年3月1日のビキニデーは、8月の原水爆禁止世界大会に向かう運動の出発点として、静岡の焼津を会場に行われています。
28日の午後には、原水爆禁止日本協議会(原水協)主催の日本原水協全国集会・全体集会が行われ、200人が参加しました。原水協事務局長の安井正和氏は、基調報告で、核兵器廃絶を目的とする拘束力ある国際的合意の構築、日本政府の「核の傘」依存政策からの脱却、非核三原則の誠実な実行などを求める行動を提起しました。そして、「核兵器全面禁止のアピール」署名や原爆写真展等などを通じて、国民との対話と共同を広げることをよびかけました。
アメリカフレンズ奉仕委員会ニューイングランド事務所責任者のジョゼフ・ガーソン氏は、オバマ氏は核兵器廃絶を表明したものの、実際には核兵器の削減は進んでいないと指摘し、核兵器廃絶の世論を高める必要があると訴えました。グアム平和主義連合のキャマリン・キチグア氏は、グアムでは先住民の土地が米軍の実弾演習に利用され、化学兵器による汚染も深刻であるなどの現状を報告しました。
同日の夜には、ビキニ被災の全容解明をめざす全国研究交流集会が、ビキニ水爆被災事件静岡県調査研究会などの主催で行われ、約100人が参加しました。同研究会代表の聞間元医師は冒頭に問題提起し、ビキニ被災者の調査や救済は、1955年の日米の政治決着以降今日まで放置されてきたと述べました。その上で福島原発事故に触れ、原発周辺住民の「内部被曝」の監視がされてない点や、浜岡原発の問題点を指摘し、今なすべき事を考えようと訴えました。
その後、安斎科学・平和事務所所長の安斎育郎氏が、「ビキニ事件の教訓から福島原発事故を考える」と題して講演し、ビキニ事件では、被災者連帯の動きは生まれなかったが、福島原発事故では、「核兵器廃絶、核政策転換、被害者援護・連帯」を追求する被害者と市民の連帯を構築していくべきと述べました。
3月1日の午前中には、墓参平和行進が行われ、約1500人の参加者は、故久保山愛吉氏の遺影と同氏の「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」との言葉が書かれた横断幕を先頭に、焼津駅前から久保山愛吉氏のお墓のある弘徳院まで行進し、献花を行いました。
同日午後には、原水爆禁止世界大会実行委員会主催で、被災59年3・1ビキニデー集会が行われ、約1700人が参加しました。集会の中で、元第五福竜丸乗組員の大石又七氏は、ビキニ事件後、日本政府は米国と政治取引を行い、国民に内部被曝の恐ろしさを伝えてこなかったと述べ、原発や放射能の危険を学んで欲しいと訴えました。また、同じ水爆実験で島民が多数被曝したロンゲラップ島への島民支援代表団の報告では、牟田善雄医師が、被曝した島民には甲状腺ガンなどの健康被害、子供にも障害が多く見られるなどの現状を報告しました。