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第一回「アー飛騨が見える、飛騨が見える」


全国保険医新聞2018年5月25日号より)

 

 

早川 幸子
はやかわゆきこ

 1968年、千葉県生まれ。明治大学文学部卒。編集プロダクション勤務後、1999年に独立してフリーランスライターに。おもに医療や年金などの社会保障をテーマに、新聞、雑誌、ネットサイトなどに記事を寄稿。ダイヤモンドオンライン「知らないと損する! 医療費の裏ワザと落とし穴」を連載中。

 「いつでも、どこでも、誰でも」平等な医療を保障し、「世界に冠たる」と賞賛される日本の国民皆保険が名実ともに確立するまでの道を連載で振り返る。(10回連載)

 

 「あゝ野麦峠〜ある製糸工女哀史」(朝日新聞社)は、明治・大正期の製糸工場の労働実態を描いた山本茂実のノンフィクションだが、日本が国民皆保険を実現したきっかけを知るための貴重な資料でもある。
 物語に登場する女工のひとり、政井みねは大家族の生計を助けるため、わずか13歳で飛騨(現・岐阜県高山市)から諏訪(現・長野県松本市)の製糸工場に出稼ぎに出される。繭から生糸を紡ぐ「糸ひき」の仕事についたみねは、稼ぎのよい「百円工女」ともてはやされたが、7年後、悲劇に襲われる。
 生糸は、熱い湯で煮たり、蒸気をあてたりして硬い繭の繊維をほぐして糸に加工する。そのため、工場内は常に高温多湿で、女工たちはその湯気に全身を濡らしながら一日中働かされており、冬場は外気と極端な寒暖差にさらされた。当時は、労働者保護の法律も整備されておらず、労働時間に対する規制もない時代だ。
 明治36年(1903年)に、農商務省(現・経済産業省)が工場の労働実態を調査した「職工事情」(岩波文庫)によると、長野県のある製糸工場では1日の労働時間が14〜15時間を超えている。劣悪な労働環境、長時間労働による疲労は女工たちの身体を蝕み、工場結核を蔓延させていった。
 病気やケガに対する保障も、「生糸工場においては全くこれなし」(職工事情)で、医薬料(薬代等)はすべて女工の負担だった。医療費は高額で、それを支払えない出稼ぎ女工は病気になると寝ているしかなかった。
 「ミネビヨウキスグヒキトレ」という電報が、みねの実家に届いたのは明治42年(09年)の秋も深まった頃。一応の病名は腹膜炎だったが、実際は当時蔓延していた工場結核であったことは想像に難くない。
 衰弱しきったみねは、迎えにきた兄・辰次郎に背負われて帰郷する。だが、飛騨と信濃をつなぐ街道、野麦峠ではるか遠い故郷・飛騨を一目見て、「飛騨が見える」との言葉を最後に、享年20歳の短い生涯を終える。日本の近代産業の発展は、みねのような職工の犠牲の上に成り立っていたのだ。

 

■労働者の生活安定、資本主義発展のため

 生糸や紡績、鉄鋼などの工場、炭鉱などの労働実態が明らかになるにつれて、資本家による労働力の搾取が問題視されるようになる。そして、労働者の生活を安定させることで資本主義の発展を図ることを目的に、西欧諸国で始まっていた社会保険が日本でも創設されることになったのだ。
 明治38年(05年)の鉱業法、明治44年(11年)の工場法といった労働者保護の法律が制定され、その流れを汲んで大正11年(22年)に制定されたのが「健康保険法」だ。労働者を対象とした公的な医療保険が作られ、日本は国民皆保険への道を歩み始めることになる。

以上