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【都道府県単位化を考える @】大転換する国保
―社会保障としての国民健康保険―

全国保険医新聞2017年3月25日号より)

寺内順子
 大阪社会保障推進協議会事務局長。著書に『基礎から学ぶ国保』(2015年、日本機関紙出版センター)など。

 国民健康保険が大きな転換期を迎えようとしている。政府は2018年4月から、国保の財政運営を市町村から都道府県へ移行することを決めた。17年度中に都道府県と市町村との調整、必要な条例の改正、運営方針の策定などを完了する方針だ。
 医療費の大きなシェアを占める国保の財政運営を担わせることで、都道府県に医療費削減を推進させる考えだ。政府が昨年閣議決定した「骨太方針2016」では医療費の地域差半減が目標として示された。医療費が地域ごとに異なることを問題視する姿勢は都道府県による医療費削減に拍車を掛けそうだ。
 都道府県単位化は国保をどう変えるのか、医療を守るためには何ができるか、国保の改善に取り組んできた大阪社会保障推進協議会事務局長の寺内順子さんに連載で解説してもらう。今号では社会保障としての国保の歴史を考える。

いかにしてつくられたのか

戦前の国保

 日本で初めてできた医療制度は健康保険法で1922年(大正11年)に成立しましたが、施行は翌年関東大震災が起きたため延期となり27年施行となりました。これは都市部での労働者本人だけを対象としたもので、組合健保約80万人、政府管掌健康保険約100万人が加入、給付は本人の業務上・業務外の疾病、負傷、死亡等で10割給付(自己負担なし)でした。
 戦前の国民健康保険法は38年(昭和13年)に施行されました。日本が日中戦争に突入した直後です。兵士の多くは農民であり、特に東北は陸軍から「良兵産出地帯」などと揶揄されていましたが、農村地帯は貧困かつ「無医村」であり、医療は手の届くところにはありませんでした。27年当時無医村は全国に3000あったといわれています。政府はそれまで農民の健康状態には全く無関心でしたが、徴兵検査で全国的に甲種合格率が下がったことに危機感を持ち、農民の医療保障に初めて関心を持ったのです。
 年金制度が「戦費調達」のためであったことは多くの人が知るところですが、国保は「健兵調達」「戦力培養」のために作られ、当時の旧国保法第一条「国民健康保険は相扶共済の精神に則り疾病、負傷、分娩または死亡に関し保険給付を為すを目的とするものとす」、まさに相互扶助、共助の制度でした。

戦後の国保〜社保審56年勧告が提起した医療保障

 45年以降、日本は戦後復興の道を歩み出し、48年に国保法は改正され、保険者は原則市町村になりました。同年、社会保障制度審議会(社保審)が設立され、戦後日本の社会保障のあり方について議論がされ、目指すべき道についての勧告が幾度となく出されました。50年に出された「社会保障制度に関する勧告」、いわゆる50年勧告では、「生活保障すなわち社会保障の責任は国にある」と明言しています。さらに56年の「医療保障に関する勧告」では医療を受ける機会の均等や疾病が貧困の最大原因であることが指摘され、この勧告が「国民皆保険」へとつながります。

 戦後復興のためになくてはならなかった国民皆保険計画と新国保法

 56年版「経済白書」には「もはや戦後ではない」との有名な記述があります。しかし、翌年の57年度版「厚生白書」には「医療保険の適用を受けていない国民は約2900万人、総人口の32%に及ぶ」との報告がされています。そこでは保険証を持たない国民がひとたび病気になると多額の医療費が必要となり、貧困に陥ることを指摘しています。前述した社会保障制度審議会「56年勧告」も同様の指摘をしていますが、「疾病と貧困の悪循環」を断ち切ることが戦後日本の復興のために必要との問題意識となり、57年に国民皆(医療)保険4カ年計画がスタートしたのです。なお、この「国民皆保険」という言葉は徴兵制「国民皆兵」から来ています。
 問題は、「すべての国民全員が医療保険に加入」するためには、他の医療保険に入ることのできない無職者、高齢者、病人をすべて抱え込む医療保険制度をどうするか。そこで地域保険である国保を再編成する必要が生まれ、59年に新しい国保法(新法)が施行されたのです。

新国民健康保険法〜「社会保障」である根拠

 59年に施行された新国保法の条文は以下です。第一条には「社会保障」と明記され、旧法にあった「相扶共済の精神」は消えています。これは、戦前の旧国保法と戦後の新国保法が全く違ったものになったことを示しています。

国民健康保険法
第一条
  この法律は、国民健康保険事業の健全な運営を確保し、もつて社会保障及び国民保健の向上に寄与することを目的とする。
第二条(国民健康保険)
  国民健康保険は、被保険者の疾病、負傷、出産又は死亡に関して必要な保険給付を行うものとする。

 

農民の運動が生んだ100%加入

農民と自治体が作り上げてきた国保

 今年1月に岩手県西和賀町を訪ねました。西和賀町といってもピンとこないと思いますが、沢内村が隣の湯田町と合併してできたのが西和賀町ですと言えば、「ああ、あの老人医療費無料化を日本で一番初めにやった村ね」「映画『いのちの山河』の主人公の村長さんの村ね」と思う方がいるのではないでしょうか。
今年は雪が少なかったそうですが、それでも車がなければ身動きができない状態。昔は1年のうち半年が雪に埋もれ、家から全く外へ出ることができないという沢内村では60年に老人と乳児の医療費無料化を国保10割給付により実施しました。そして岩手県は戦後全国で最も早く国保100%実施を行った自治体です。なぜ岩手でそんなことができたのでしょうか。

 厳冬と貧困の岩手の医療獲得運動

 岩手県の医療を獲得する運動は30年代初頭から始まりました。日本一の豪雪地帯で一生のうち一度も医師に診てもらうことができなかった農村では、医療は自らの手で作り出す以外にありませんでした。
医療とは医療を使うための制度と医療機関です。無医村解消のために日本最初の県営医療施設が「岩手県世田米診療所」で開設され、33年には産業組合立病院として岩手病院が誕生し軽費診療が行われました。一方で割安の医療費さえ払えない農民の要望に応じるため水沢町福原産業組合では36年に保健共済事業を開始し、のちの国民健康保険制度の先駆けとなりました。
 38年に国保法が施行され、岩手県では産業組合に代行させることとし、44年には226国保組合が、盛岡・釜石を除く全県下に普及しました。43年産業組合は農業会に統合、産業組合代行国保事業は市町村農業会に移管。しかし、その後長引く戦争で国民は疲弊し、保険料どころではなくなり国保のほとんどが壊滅状態に陥りました。

1955年に岩手では国保100%普及を達成

 47年8月に創刊された「岩手の保健」(岩手県国保連編)の巻頭には発刊の言葉として「反省と新発足〜国民健康保険組合制度について」という文章が掲げられています(岩手県保険課長竹下定)。

 社会保険の一体系としての健康保険が従来より立っていた健康は、個人の幸福の根源である。
 従って個人の健康が害されて病気になったときに、経済的な理由からして充分に、それを治療させることができないというようなことは、言うまでもなく人生の最も大きな悲惨事であって、これをそのまま放任しておくということは人道としてゆるされないというのが健康保険の主張された根本の理由であった。
 そのように人道主義ということから出発して、経済的な弱者の個人的な幸福を、保護することを目的とした従来のいわゆる社会事業と相通じた、思想的根柢の上に立っていたということになる。
 我が国の社会立法は国民健康保険制定に至るまでは、多くの場合は、都市民を対象とし、農漁村民を対象としたものは極めてまれであった。そのようにして完全なる自治制をもつ、社会立法としての国民健康保険は最も時重要なる地位にあるものであるから、現下の国民健康保険については、静かに反省してみる必要があるとともに、今日の障害となる一切のものを改廃して、行かねばならないと思う。

 この文章からも、農村にとって国保がいかに重要なものであったのかを知ることができます。

上からの押しつけでなく

 55年の記念号「社会保障の星」は「国保百%普及記念号」と銘打たれており、岩手県では61年の国民皆保険スタートより6年も前に国保100%加入を達成していたのです。
 55年11月発行の第42号では「岩手国保の歩んだ道」として国保100%加入の特集がされており、冒頭を飾る文章に100%達成の背景である農村民の苦難のくらしの歴史が書かれ、「岩手の国保運動は貧しいものにも医療を平等に〜というヒューマニティ(人間愛)の精神に貫かれ、それが住民の納得と共感の上に進められた。上からの押しつけによって普及したのではなく、住民大衆の盛り上がりによってなされたものであり、いわば大衆運動の勝利であった」と高らかに書き記していることに大きな感動を覚えます。

以上