医師・歯科医師が地域医療再建に尽力
―東日本大震災から5年―
(全国保険医新聞2016年4月5日号より)
東日本大震災から5年が経過した。震災直後から被災地の医療の再建に向けて努力してきた医師・歯科医師の声を紹介する。
【岩手】病院や診療所が再開 医師が不足
大槌町・内科、小児科 道又 衛
大津波により街並みのほとんどを失った大槌町では、2015年の秋頃より中心街への商店などの建設が始まります。5年の間に人口の流出が進み、予定していた出店数も減少し、街中に住もうと計画していた人達も少なくなり、以前のような賑わいは望めないような状態です。代わって、津波の被害のなかった場所に新たな住宅街ができておりますが、災害復興計画の指定を受けた住宅街では商店を建てることができず、歩いて買い物に行くことができず、車を持たない年寄りには非常に不便な状態となっております。
さて、医療を取り巻く環境は5月には県立大槌病院がオープンし、仮設で診療を行っている先生も街中に医院を建設することが決まり、震災前と変わらない状況となります。開業医が減少する被災地の中にあって、釜石・大槌地区は地域住民との信頼関係が厚いこともあって、皆元気に日々の診療に当たっております。
県立病院で働く医師や開業医の数はそれでもまだ十分とはいえません。三陸縦貫道や釜石・花巻横断道が2年程で全線開通します。都市部へのアクセスも容易となります。どうぞ次の働き場所として釜石・大槌地区を考えてみてください。
【岩手】医院の再開 患者さんの声が後押し
宮古市・歯科 松山光男
暖かい日が続き庭の梅の花が今年も何事もなかったかのように咲き始めた。一見のどかな光景だが5年前の3月11日、この庭は泥水と丸太やさまざまな瓦礫に埋めつくされてしまった。
自宅と診療室は同じ敷地内にあるが海抜2メートルの低地なので津波は常に意識していた。そこで私なりに過去の大津波を検討し、2つのルールを決めておいた。@津波警報が発令されたら10分以内に避難を開始する。A最低でも15メートルの高さを目標に少しでも高い場所に避難する。この2つのルールを決めておいただけでも震災当時迷わず避難行動を実行できた。今ならほとんどの方が同様の行動をとると思うが、当時は避難を面倒がる人も多く犠牲者数を拡大させてしまったことは残念だ。この大震災から得た教訓は、決して風化させてはならない。
宮古市を中心とする宮古歯科医師会では会員の半数20人が被災し、被災を免れた歯科医師が診療に、津波犠牲者の検屍に、避難住民の口腔ケアにと頑張っていただいた。被災して落ち込む日々もあったが、瓦礫を片づけていると通りがかった患者さんから「先生、いつから始めるんですか。待ってます」と声を掛けられ、活力が湧いてきて無事再開にこぎつけることができた。
いまだに元の生活環境に戻れない被災者が大勢いる。社会の関心も薄れがちだがこれからも彼等に寄り添って支援していくことが必要だろう。
【宮城】被災地域に根ざす 歯科診療所を目指して
利府町・歯科 河瀬聡一朗
私は東日本大震災当時長野県の松本歯科大学障害者歯科学講座におりました。震災直後の状況をテレビで目の当たりにし、松本歯科大学災害歯科支援隊の隊長として宮城県に入りました。その後無歯科医地区になった石巻市雄勝町で、被災地域の歯科医療再生、社会的弱者と呼ばれる方々のお役に立ちたいと思い、2012年3月に大学を退職し家族で宮城県に移住しました。12年6月には石巻市雄勝歯科診療所が開設され現在所長を務めております。
石巻市雄勝歯科診療所は石巻中心部から車で片道1時間弱要します。プレハブの診療所ですが雄勝町内の方々のほか、町外からも多くの障がい児・者、有病者、摂食嚥下障害者の方々が来所します。移動が困難な方々には訪問歯科診療で対応をしております。
雄勝町は津波により企業が被災し雇用がなくなりました。また保育所がなくなり、小中学校は5校中3校がなくなりました。よって多くの方々が雄勝を離れざるを得ない状況にあります。現在雄勝町で実際に生活をしている人数は1,000人以下といわれています。そのうちの多くが高齢者で高齢化率が50%を超える限界集落となっております。
そこで問題となるのが交通手段です。運転ができない方は住民バスが主な交通手段となります。しかし1日に3〜4便しかありません。高齢者の独り暮らしや高齢者夫婦世帯にとっては死活問題となります。そこで体調の安定しない方のご家庭には、時間の合間を見計らってお宅訪問を行っております。健康状態を把握し、必要に応じて情報を多職種で共有するようにしております。
震災で小さな町がさらに小さな町となってしまいました。しかし、小さな町だからこそ目配り気配りが容易にできる面もあります。
16年11月頃には医科と歯科が一体化し本設の雄勝診療所が開設されます。これからも多機関と連携を取りながら、町の健康を支えるお手伝いができればと思っております。(宮城保険医新聞より転載)
【宮城】近所の協力で被災医院の突貫工事
多賀城市・整形外科 藤野茂
震災後5年が経ちました、多賀城市はどこが被災したのかだいぶわからなくなりました。しかし多賀城市は市内の33%が浸水し、200人近い人が亡くなりました。海が全く見えない街なのでまさか津波が襲うとは誰も思っていませんでした。私も間一髪の差で高台に逃げて助かりました。多賀城市の津波は仙台新港を超えて仙石線多賀城駅近くまで到達しました。
医院は2メートル近い津波で全壊しました。長期の休診を覚悟しその間勤務医として働くことや、再度津波が来る噂もあり移転も考えましたが、近所の他科の先生方と話し合い、もう一度ここで頑張ろうということになりました。
近所の高台に住む工務店の社長が大変心配してくださり資材、人手、ガソリンなど足りない中、山形や秋田から資材を集め朝から晩まで突貫工事をしていただき、近所のスーパーやコンビニに先駆け、予想の半分以下の5月6日から再開できました。日頃からの近所の方との交流の大切さを痛感しました。
先日、実家の野蒜(のびる)や閖上(ゆりあげ)などの沿岸を見てきました。人が住めなくなった所に延々と巨大堤防ができていましたが、現地再建を謳う多賀城市に対して早く仙台新港に防災堤防を完成させてほしいものです。
最後に、保険医協会をはじめ日本医師会、整形外科学会から多額の支援金をいただき本当に助かりました。特に保険医協会からは被災して日も浅いうちからわざわざ当院まで来てお見舞いをいただきありがとうございました。あらためてお礼申し上げます。(宮城保険医新聞より転載)
以上