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定額負担 反対が5割超
保団連 開業医の実態・意識基礎調査

高野病院理事長 高野 己保 氏
全国保険医新聞2017年3月15日号より)

 公のバックアップ 絶対に必要

 昨年唯一の常勤医だった高野英男院長が亡くなり、病院の存続が危ぶまれるとマスコミで大きく報じられた福島県広野町の高野(たかの)病院(病床数118)。東京電力福島第一原発事故後も避難せず診療を継続し、双葉郡唯一の病院として大きな役割を果たしているが、関係者は医師やスタッフの不足、経費増による経営の圧迫などに悩まされ続けてきた。病院の理事長として診療継続のために奔走してきた高野己保(みお)氏(写真)は、「高野病院の抱える問題はどの医療機関にも起こり得る」「地域医療を守るための公のバックアップが必要」と語る。(聞き手編集部)。

全町避難で水の 供給止まる

写真提供:共同通信社

 2011年3月12日午後、福島第一原発の1号機が爆発し、政府は原発から半径20キロ圏内に避難指示、翌日には20〜30キロ圏内に屋内退避指示を出した。原発から22キロの地点にある高野病院は避難指示の対象外だったが、広野町は13日、町民に避難を指示した。
 当時病院は津波による停電と断水に見舞われ、1980年製造の古いディーゼル発電機で電気を供給し、町の消防団が給水をしている状態だった。全町避難により水や物資の供給が止まり、当時約100人いた入院患者を抱えて病院にとどまるのは困難に。高野氏は電波状態の悪い中、携帯電話で、県に物資の補給やスタッフの派遣、患者の移送を依頼し続けた。「患者全員を別の病院に移すことができれば、避難したかもしれない。しかし当時、患者全員を入れられるのは医療設備のない体育館だけ。精神科の患者を体育館、内科の患者を教室と分けてはどうかとも言われたが、それでは院長一人で両方の患者を診られないから無理だった」。
 16日の午前中、高野氏は避難に向けて金庫や患者台帳などを車に積み込んだが、患者の搬送先はなかなか決まらない。午後、高野英男院長(当時)は病院に残ることを決めた。

約100人の患者にスタッフ13人 

 避難したスタッフも多く、残った人員は13人。当時の入院患者全員を診るのは不可能だった。県に人員の派遣を依頼したが、DMATも医師会も既に撤収。残ったスタッフらは1週間近く仮眠しかとれない日が続いた。
 19日と21日に入院患者の一部を埼玉や茨城の複数の病院に移送。患者の腕に名札をつけ、カルテと薬の情報を書き出したものを渡して送り出した。患者一人ひとりの放射線量チェックにかなりの時間がかかり、最後の患者が移送先に着いたと連絡があったのは夜11時近くだった。 
 移送は、手続き上は入院として扱われてしまい、移送先の病院が、患者の家族に手付金の支払いや入院手続きのための来院を求めることもあったという。「患者の家族から、『私たちも着の身着のままで避難してきたのに、5万円の支払いを求められた。どうすればいいのか』との問い合わせも来た。緊急時には手続きの簡素化が必要です」。診療報酬の請求にも影響した。「コピー機が壊れてしまい、患者にはカルテの原本を持たせるしかなかった。月末の請求時には記録がなく非常に困った」。
 移送後、病院に残った患者は37人となり、不眠不休だったスタッフらはようやく休みを取れるように。高野氏も地震直後から小学生の娘たちに半月以上も会えず、家に帰れたのは5月の連休明けだった。

経費増でぎりぎりの運営―原発事故後に救急や時間外が激増

 広野町が独自の避難指示を解除したのは2012年の3月だが、高野病院は原発事故から約2カ月後には外来診療を再開した。
 双葉郡で診療を続ける唯一の病院となったため、救急搬送や時間外診療が激増。原発事故前にはどちらも年に数件だったのが、救急搬送は年60件以上、時間外診療も年130件程度になった。
 以前はほとんどなかった死体検案も、今は月に一件程度行う。昨年の検案は、約半数が自殺だった。避難指示区域等に一時帰宅し、自宅の納屋や車庫で首を吊るケースなどだ。「最期は自分の家で死にたいと思ったのでしょうか。そんな人が運ばれてくると本当に悲しいし、やるせない」。

アパートなど経費で借りた

 原発事故後6年間、高野氏は医師とスタッフを確保するために奔走してきた。
 震災から1年後、2人いた常勤医が高野英男院長のみとなった。非常勤の医師の協力も得て診療を継続したが、「負担の限界を超えていたと思う」。2011年2月に60人近くいた看護師やヘルパーも、3月末には3分の1程度になっていた。
 求人会社、大学や知人のつて、テレビCM、講演会で声を掛けるなどあらゆる手段を駆使して人を探した。スタッフ総出で周辺のアパート、民宿、仮設住宅の空き部屋などを探し、多いときには30件ほどを病院の経費で借り、「身一つで来ても大丈夫」と宣伝。震災の影響で周辺のいわき市などの家賃は高騰しているが、「患者がいるからとにかく人を集めなければと必死です」。
 それでも放射能への不安からか、スタッフ確保は困難を極めた。

医師やスタッフの確保に奔走

 福島県は、双葉郡や浜通り地方の病院の医療従事者の確保に関する補助金を出しているが、民間医療機関の場合、スタッフの確保自体は個々の医療機関に任されている。しかし、本当に必要なのは人探しそのものへの支援であると高野氏は言う。「県からの補助金は、医師やスタッフを確保したらその分の人件費を補填するというもの。だから、私たちが駆けまわって人を探すしかない」。
 しかも、東日本大震災当時よりもスタッフが増えた場合には、補助金の対象から外れてしまう。しかし高野病院では原発事故後、以前よりも多くのスタッフが必要になった。親と同居しながら子育てをしていた看護師などが、避難先の仮設住宅で親と別々になり、子どもを預けての夜勤や休日出勤などができなくなり、その分の補填をしなければならないためだ。
 さらに被災地の人件費は高騰している。

現在の高野病院。入り口脇に放射
線量を測定するモニタリングポス
トがある

人材確保のシステム、事故で崩壊

 高野病院は1980年に設立。当初からスタッフ確保には苦労した。周囲よりも高めの賃金設定、いわき市や浪江町への送迎バス、近くの准看護学校の奨学生を募集するなどのさまざまな工夫を凝らし、人材確保のシステムを作ってきた。それがようやく軌道に乗ったときに起こったのが原発事故。「一人採用して定着させるのは本当に大変。何十年かけて培ってきた採用のシステムが崩壊してしまい、これがまたうまく回るようになるには何十年かかるのだろうか」。

東電は経費増分の賠償を拒否

 

爆発後の3号機原子炉建屋の
外観 (東京電力HPより)

 原発事故後に増えた人件費や人材確保のために支払った家賃は、病院の経営を圧迫している。
 東電はこれらの経費を、病院の経営判断によるもので原発事故との因果関係がないとして賠償を拒否。高野病院は裁判外紛争解決センター(ADR)に申し立て、昨年10月に東電との和解が成立した。
 しかし高野氏は「これまで支払った人件費の増額分の約8割程度の賠償しか認められず、和解といえるような内容ではない」と言う。「原発事故後、医師とスタッフが不足する中、救急を受け、時間外を受け、外来を受け、入院患者を受け入れてきた。それでも経費増のために経常損失を出し続けており、賠償金や補助金で何とか補填してぎりぎりで病院を運営している」。

「国にとどめ刺された」16年改定

 さらに、16年の診療報酬改定で療養病棟入院患者の算定要件が厳しくなり、点数が大幅に下がった。「昨年4月からのマイナス分は、これまでのように水光熱費を節約してなんとか取り返せる額ではない。原発事故でダメージを受けている中、国にとどめを刺されたようなものです」。
 4月からは救急の受け入れ等に対する広野町からの費用の助成が決まったが、経営基盤の安定には程遠い。

一民間病院の問題ではない

 昨年12月に唯一の常勤医だった高野院長が亡くなると、病院の存続が危ぶまれ、マスコミで大きく取り上げられた。
 都内で外科医として勤務していた中山祐次郎医師が先月、3月末までの院長として赴任し、その後は二人の常勤医が来ることが決まった。
 「今の高野病院が抱えているのは一民間病院だけの問題ではなく、一度災害が起こればどこの医療機関でも起こり得るし、地域医療を支える多くの医療機関が現に抱えている問題でもあると思う。災害が起こったとき、僻地の医療を支える医師が亡くなったとき、その地域の医療が崩壊してしまったら国民皆保険の意味がない。それを防ぐために絶対に必要な公のバックアップが不足していると思うんです。県や国にいろいろな要望をしてきたけれど、結局一民間病院だけの問題として捉えられて相手にされない。だから医療関係者みんなで声を上げていきたい」。


精一杯の日々 スタッフに感謝

高野病院院長 中山 祐二郎

 高野病院に3月末までの院長として赴任している中山祐次郎氏(写真)に、赴任を決めた思い、病院の状況などを聞いた(聞き手編集部)。

 1月まで私は、東京都内の病院に外科医として働いていた。4月から福島県郡山市の病院に勤務することが決定していたが、高野病院でボランティア勤務をした友人医師のフェイスブックの書き込みを見て、郡山に行く前に2カ月間だけ常勤医・院長として働くことを決めた。高野病院の危機を少しでも救えるかもしれないという思いと、院長職の重責が自身の成長や医師スキルの向上につながるのではないかという思いがあった。

  今高野病院には、内科と精神科合わせて100人以上の入院患者さんがいる。内科の入院患者さんの多くは80歳以上で、慢性期疾患の方がほとんどだ。疾患としては、認知症に加え高血圧や糖尿病、腎疾患や消化器疾患など多彩な合併症を持っている方が多い。
 また、原発事故で避難している間に合併症が悪化した人がほとんどだ。家族が遠方にいてサポートが難しいという問題もある。現在、自分以外に10人以上の非常勤の医師が来て下さっている。毎週来る医師が6、7人と、スポットで支援に来る医師がいる。それでもまだ医師もスタッフも十分とは言えない。

 病院での私の仕事は、外来、回診、入院対応、書類書き、栄養士や薬剤師との打ち合わせ、院内会議出席、取材対応など多岐にわたる。高野病院での初日には、目が回る忙しさと膨大な量の書類に「高野院長はこんな量の仕事をやっておられたのか」と驚いた。事務の女性に思わず、「すごく書類が多いですね」と弱音を吐いてしまったほどだ。その彼女は私の歓迎会で、「先生が来て、診断書を書いてくださって、患者さんたちや家族がすごく喜んでくれています。ありがとうございました」と涙をこぼしつつ言った。私は自らを恥じた。
 これまでの自分の仕事とは専門がまったく異なるので、教科書等を読み、再度勉強しながらやっていくのに精一杯の日々だ。スタッフの皆さんに助けられての院長であり、感謝しかない。

以上