鼎談 漫画『フラジャイル』から考える
遺伝子医療と新薬開発の光と影
(月刊保団連2020年8月号、全国保険医新聞2020年7月25日号より)
漫画『フラジャイル』(原作:草水敏、漫画:恵三朗)は、日本にわずか2,000人しかいない病理医を主人公に新しい視点から医療を捉えており、「未来は始まっている編」(単行本15〜17巻)では急速に発展する遺伝子医療の現状を描いている。一般読者はもとより医療者からも支持を集めており、医療エンターテインメントとして高く評価される作品だ。今回は原作者の草水敏氏をお招きし、新たながん治療や遺伝子検査の開発に携わってきた名古屋大学名誉教授の小島勢二氏と、保団連政策部長の竹田智雄理事とともに、先進医療の実態や変化を迫られる創薬体制の問題などについて語り合った。(文・構成:編集部)
──今日の鼎談に合わせて、竹田先生と小島先生には「未来は始まっている編」を読んできてもらいました。臨床医の立場から読んで、いかがでしたか。
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草水 敏(くさみず・びん)
1972年島根県仁多郡出身。漫画原作者。2014年8月より月刊漫画雑誌『アフタヌーン』(講談社)にて、病理医を主人公にした漫画『フラジャイル』の原作を担当。 |
竹田 私、普段漫画はあまり読まないのですが、医学的に高度な内容が分かりやすく描かれていて、とても驚きました。医療エンターテインメントの分野でも、病理医を主人公にした漫画はかなり珍しいのではないですか。
草水 『フラジャイル』の準備の中で、たくさん病理の先生に会いましたが、みなさん口をそろえて「なんで病理?」「おもしろいの?」という答えが返ってきました(笑)。でも、医療現場を取材していると、臨床医の話の中に、治療方針を決める最後のより所となる「病理医」なる謎の医師が頻繁に登場 することに気づきました。患者と接することもなく、手術もしない、薬も出さない、でも頭の先から爪先まで全身の診断を引き受ける重責を人知れず担っているらしい……と、そんな風に興味がわいて調べ始めたのが、この作品を描くきっかけになりました。
小島 私も40年間、小児のがんや難病を専門にしてきましたが、ずっと懇意にしている病理の先生がいます。小児がんなどは一つ一つが希少疾患のようなもので、病理が命のところがあります。私もとても楽しく読ませていただきました。
草水 ありがとうございます。
──15巻から登場する紀子おばあちゃんは十二指腸がんの再発が見つかり、治療の可能性を探るなかで網羅的遺伝子検査を受けます。その結果、がんの発症リスクを高める遺伝子疾患「リンチ症候群」が見つかります。根本的な治療がなく、かつ、5割の確率で子や孫に遺伝するという病気です。このエピソードのなかに、遺伝子検査を巡る問題が詰め込まれていました。
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遺伝子検査の結果を知り、患者家族にも不安が広がる
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孫の郁は、インチキ医療本に翻弄され、治療法のない
現状を主人公の病理医、岸に詰め寄った
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自費でオプジーボの使用を決意する紀子おばあちゃん
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竹田 遺伝子検査が発展してきて浮上している課題のひとつが、治療法の開発が追い付いていないということなんですね。遺伝子変異が見つかっても治療に結びつくのは10%程度と言われます。作中でも、家族全員が治療法のない遺伝子疾患のリスクがあるという事実を突き付けられました。
また、本来の治療目的とは別に新たな遺伝子変異が分かってしまうという2次的所見の問題もあります。おばあちゃんのリンチ症候群はこのような形で思いもよらず分かってしまった。家族の会話で「治せないなら知る意味ない」「遺伝子検査は役立たず」といった、切実な感情が吐露されていましたね。
草水 患者の視点から眺めていると、ああいう描き方になりました。私の仕事は、医療に関する客観的な情報を伝えることではなく、それが人生の中でどういう意味をもってくるのかを描くことです。
医療者からいろいろと説明されても、患者の意識や感情は全然ついていけないですね。ある日突然、何か深刻な病気だと言われて、やっぱり不安だし、直視したくない。遺伝子なんて出てきたらなおさらです。
そんな中、新しい薬なら治るんじゃないかとか、期待と不安のはざまで揺らいだりする。作中で出したがん治療薬オプジーボも、一時期、そういう注目のされ方をした薬でしたね。抗がん剤治療はしないと一度は決めた人でも、「遺伝子技術の応用で開発された」「ノーベル賞の薬だ」と言われたら、もしかしたら治るんじゃないかと期待してしまう、みたいな姿が患者の実際かなと思います。
小島 紀子おばあちゃんが自費でオプジーボの使用を決意する場面は印象的でした。患者本人の治療というより、遺伝性のがんの発症を見越して子や孫のために治療効果を測る「実験台になる」という、かなり挑戦的な描かれ方だと感じました。
草水 紀子おばあちゃんに「(薬が)効いても効かなくても私の丸儲けだね」というセリフを与えてみました。実際に、遺伝子検査を受けた患者さんで、自分が治るかどうかより、病気が家族に遺伝しないことが分かって、うれしくて泣いてしまったというエピソードを思い出したりしていました。
小島 私は子どもを相手にしてきたので、そういう視点があるのだと、はっとしました。私自身、名古屋大学で網羅的遺伝子検査の独自開発と臨床での運用に携わってきましたが、もっぱら目の前の子どもへの治療効果を上げるためのものでした。親や祖父母という視点からは遺伝子情報も別の意味をもってくるのだなと。
竹田 私は、主人公の病理医、岸先生が遺伝子変異を細胞の形態から、つまり顕微鏡で発見するというエピソードが、とても興味深かったです。
草水 そういう問題意識で研究を進めている専門家はいて、遺伝子検査が発展する中で、病理、形態学のあり方に関わる重要テーマなんです。実際、形態学はこうやって進歩してきたんだと思うんです。目視で病気を診断していた時代から、顕微鏡で細胞が見えるようになって、今それが遺伝子になってきた。実質は変わっていない。見た目と病気の因果関係をデータベース化したのが形態学ですから。
──シリーズ後半では画期的な遺伝子治療薬の治験実施の展望が見えるなど、希望的な側面も描かれます。一方で、高度な遺伝子操作などを要する分野では、もはや製薬企業は技術面、コスト面から独自に新薬を開発することができず、大学などの研究機関で開発された技術の特許を買い取り、新薬として販売する形が主流となっている様子が描かれます。
草水 新薬治験で不祥事を起こして大手製薬企業を追われ、弱小製薬に埋もれていた間瀬という剛腕MRの男を軸に話を組み立ててみました。大学病院で開発中の画期的遺伝子治療のアイデア(シーズ)に目をつけ、これを強請のように買い取ってシーズごと古巣の大手製薬に自社を売り払うという、創薬を巡る特許売買、企業買収に登場人物たちを巻き込んでいきます。
あそこで描きたかったのは、新薬開発の研究者の努力が一方にあって、他方に治療法がなくて困っている患者がいる、そこを最短の一本の糸でつなぐとどうなるか、ということだったんです。
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画期的な新薬シーズに目を付けた剛腕MRの間瀬は開発者たちに特許売買を持ちかける |
竹田 作中では描かれない問題ですが、こうした事態に関連して、薬が公的保険で使用される際の公定価格=薬価をつり上げるマネーゲームが深刻化すると懸念しています。
保団連では以前から日本の高薬価体制を問題視してきました。薬価算定プロセスがブラックボックス化しており、企業側の言い値で薬価が決まっているのではないかと指摘し、情報開示と適正な薬価算定を求めてきました。
こうした状況に加えて、創薬体制の変化が生む新たな問題、つまり、特許料支払いや、シーズを持つベンチャー企業の買収に要した膨大な費用を薬価に上乗せする、いわばマネーゲーム型高薬価ともいうべき問題が生じているのではないかと考えています。
小島 これは、私も実感するところです。
私は名古屋大学でCAR-T療法1)の独自開発と自施設での実施に注力してきました。再発・難治性の白血病にも高い効果を示し、これまで救えなかった命が救えるようになってきています。今後のがん治療の中心となりうる有望な治療法です。
CAR-T療法を用いて米ノバルティスが販売した新薬が、昨年日本でも保険収載されたキムリアです。1回投与で約3500万円という高薬価で保険適用されたことでも話題を呼びました。ただ、このCAR-T療法を、私たちが自施設で実施した費用は100万円程度で済みます。アカデミアの実施費用と保険の薬価を単純に比較はできないところはありますが、この金額の差は大きな疑問でした。
この背景にあるのが、マネーゲームの問題ではないかと思うのです。キムリアの技術もペンシルベニア大学が開発したものです。
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研究者を出し抜いて新薬の設計図に特許を掛けようとする間瀬の部下のMR |
竹田 患者一人あたり約1億6000万円という過去最高薬価がついた、小児の難病・脊髄性筋萎縮症の治療薬ゾルゲンスマも同様の懸念がありますね。
米ネーションワイド小児病院から独立した研究者たちが医療ベンチャーを設立してシーズを育て、そのベンチャーをノバルティスが約9300億円で買収するという経緯がありました。
小島 現在見つかっている遺伝性疾患は約5,000種類あります。遺伝子治療薬はこれらの治療の主流になるでしょう。しかし、その全てに数千万円、数億円という薬価がついていたら皆保険財政に深刻な打撃となるでしょう。せっかく医学の発展があってもその成果を患者に届ける仕組みの方がもたなくなるのではないかと危惧しています。
竹田 私たちとしては、有効性・安全性が確認された治療なら、たとえ高額でも速やかに保険適用され、広く患者が享受できるべきだと考えます。しかし、数千万、数億円といったこれまでとは次元の違う高薬価新薬が現れ、算定過程を検証もできない状況は是正されるべきです。高すぎる薬価を適正化することは、国民皆保険の充実にもつながるものです。
草水 そういう実態を聞くと、薬を創るという営みに市場原理が入り込んでいることに根本的な疑問を感じますね。薬の値段って何なのか、薬って誰が誰のために創っているものなのかという問題ですよね。
例えば、スマートフォンとかパソコンって、儲からないから新しく開発しませんって企業に言われても、別に今より困ることないじゃないですか。でも、薬ってそういうものじゃないですよね。利益が得られないから創らない、売らないって言われたら、人の命を人質に取られているようなもので、同じ経済性の原理になじまないというか……。
小島 そう思います。私たち現場の医療者は、目の前の患者さんを治したいという思いで、新しい治療を開発していますが、日本はこれを「成長戦略」として位置づけ、アカデミアの研究成果を導出(特許として売却すること)を奨励します。そもそも医療分野では公的な研究資金がそれを前提に支出されます。私はそこに根本的な問題を見ています。
──話題は、医学研究をはじめ研究・学術分野を、もっぱら経済性や成長戦略という視点から評価しようとする国の姿勢という問題に移ってきました。先進医療のあり方を考える際、この論点が避けられそうもないですね。
竹田 保団連としては、製薬企業が適正な利益を得ることは、何ら否定する立場ではありません。日本の医療提供、医薬品供給は、民間製薬企業の生産体制、販売網に支えられています。小島先生の問題意識もそれを否定するものではなく、先進医療の提供のあり方、それへの国の姿勢が、実態に合っていないというところにあるのですよね。
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小島 勢二(こじま・せいじ)
1976年名古屋大学医学部卒業。2002〜2016年名古屋大学大学院医学系研究科小児科学教授、2016年同名誉教授。専門分野は小児血液腫瘍学、造血幹細胞移植。 |
小島 その通りです。私が先進医療の分野でアカデミアの成果を売却することが不合理だというのは、薬価の側面だけではなく、実際に治療を行う上での合理性の問題も大きいのです。
低分子薬などのように製薬企業が開発、提供してきた分野と違って、遺伝子治療などの先進医療はそもそも開発から実施まで大学病院クラスの施設で行われます。患者ごとのオーダーメイド医療であり、現状では対象患者も限られるため、実際に目の前に患者がいる環境でなければ実施もできない。パッケージ化されたものを全国に安定供給するための生産体制や販売網という従来の製薬企業のアドバンテージに頼らないものだし、そもそも相性の良くない分野なわけです。
こうした条件から、私は、先進医療の分野では、公的資金を用いてアカデミアが開発した治療は特許で独占せず、情報を公開しあうことが合理的だと考えています。情報が共有できれば、アカデミア同士なら技術を再現でき、目の前の患者さんを救えるのです。
草水 創薬を成長産業にしたい国や企業は嫌がるでしょうね。作中では、製薬側に、研究者が開発した治療薬の遺伝子配列を先回りして特許申請することで独占することを画策させてみました。このもくろみは頓挫するのですが、特許で独占して利益を確保するというのが商業化の基本発想だろうと思います。
小島 何でも特許、特許と独占されたら医学の進展はどうなってしまうのかと思います。
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竹田 智雄(たけだ・ともお)
1959年生まれ。1985年岐阜大学医学部卒業。1998年竹田クリニック開業。日本麻酔学会専門医。2014年から全国保険医団体連合会理事。岐阜県保険医協会会長。 |
竹田 公的研究資金は企業への特許売却を前提にしない形であるべきだと。
小島 そう思います。技術革新というのは、特定の研究者や大学が突出してリードするというより、いろいろな特色を持つ研究が育っていて、それらが時宜を得て大きな成果につながったり脚光を浴びるというものだと思います。そういう種を広く育てる公費の使い方をすべきだと思いますね。
今の制度は、収益につながるものを重視する形ですが、アカデミアの研究者や現場の医療者はそのような発想にはない。
草水 一方で、私は、その人がいなければ成し得なかったというような功労者にはふさわしい評価が与えられるべきという思いもあります。それが技術開発したアカデミアと特許料を支払う企業の関係性にちょっと近いのかなとも思うのですが……。
小島 褒賞のようなものも一定の範囲で否定はしません。ですが、医学の発展は連綿とした歴史の中にあるものだと思います。例えば、本庶佑先生のオプジーボや、山中伸弥先生のiPS細胞、私が携わってきたCAR-T療法も、誰か1人が生み出したものではなく、先達の積み重ねや、若い院生たちを含めた研究室チームの努力としてあるものです。
それが、個人の業績のように扱われ、ましてや特許のように独占的な形になるのは、私には違和感があるのですね。今名前を挙げた先生たちもそういうことを分かった上で、研究を継続していくための資金獲得に苦労しているのだと思います。
草水 なるほど、実は、『フラジャイル』全体を通じて描こうと思っているテーマに「継続性」ということがあります。遺伝子医療はまさにその中心的テーマとして扱いました。
そもそも物語の始まりは、病院の1人病理医である岸先生のもとに、新人の医師がやってくるところから始まります。そしてその岸先生にも大学の指導医から受け継ぐものがあり、みんな医師としてちょっとずつ似たところを持ちながら、医療現場、臨床研究を支 えている。医療や医学ってそういう連綿とした継続性の上に成り立っていますよね。問題はどういう形でこれを支える資金を出すべきかってことですよね。医学の継続性を考える根本テーマですね。
竹田 特許や商品化というのは、連綿とした努力に支えられてきた医学、医療の発展の一時点を切り取って排他的に独占してしまうという意味で、相性が悪いということなのかもしれませんね。先進医療の提供のあり方、新薬としての薬価のつけ方は、まだまだ国民的な議論に付していく必要があると感じました。
──『フラジャイル』を手掛かりに、先進医療の実態から、医療、医学のあり方の根本までを考える貴重な機会をいただきました。今日はありがとうございました。
注
1)がんを攻撃するT 細胞を採血で取り出して、遺伝子操作でがんを認識する力を強化されたCAR-T 細胞を作り、増殖して患者に戻す治療法
以上