自己責任論から「ケアのロジック」へ
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筑波大准教授 清水知子氏 |
―ご著書では新自由主義以後のイギリス社会を文化面から分析されていますが、現代日本にも通じる特徴はあるでしょうか。
はい、新自由主義が世界を席巻して30年以上が経ちました。その本家ともいえるイギリスのサッチャー元首相は社会保障など福祉政策を大胆に縮小し「社会というものはない。あるのは個人としての男と女と家族だけだ」と言いました。
2018年にカンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞を獲得した是枝裕和監督の『万引き家族』、昨年カンヌパルム・ドールを受賞したポン・ジュノ監督の『パラサイト』、そして昨年末に日本で公開されたケン・ローチ監督の『家族を想うとき』など、貧富の差が拡大し、苛酷な生存条件に追い込まれるなかで、新自由主義の顛末として「家族」をテーマにした映画が注目を浴びています。
いずれも「社会のない社会」で浮き彫りになった人々の苦境を可視化しながら、脆弱な社会のしわ寄せとして必要最小限のセーフティーネットの役割を課された「家族」を問い直しているように思います。「家族」は、もはやその重責に耐えきれず、決壊しつつあるのではないでしょうか。不安定な雇用状態のなかで「家族」のために苛酷なシフトを背負い込んで負のスパイラルに陥ってしまうのが『家族を想うとき』なら、『万引き家族』は行き場のない社会のなかで、血縁とは無縁に支え合う共同体とその居場所をつくる、これまでとは別の「家族のかたち」を描き、既存の制度に挑戦するドラマだと思いました。
―コロナ禍で医療をはじめ公共政策の重要性が明白になり、新自由主義の脆弱さが浮かび上がったという指摘が目立ちます。イギリスのジョンソン首相でさえ「社会は存在する」と発言して話題になりました。
コロナ禍はそれ以前からあった社会の脆弱性を浮き彫りにしたと思います。新自由主義社会は「不安定さ」を不均衡に配分し、「生きるに値する生」とそうでない生を区分する生政治/死政治の光景を可視化しました。
営業自粛で経済活動が停滞していたなか、医療や介護、教育、保育など、人間の生そのものを支える営みあるでエッセンシャル・ワークの重要性が明白になり、そこに感染リスクや低賃金長時間労働などが集中している実態も問題化しました。自粛生活のなかで家事・育児負担の多くが女性に集中している実態も炙り出されました。
1970年代のイタリアでは「家事労働に賃金を」というキャンペーンがありました。その目的は単に家事労働に賃金を支払えということではなく、人間が生きていくうえで不可欠な膨大な繊細な仕事、その多くは女性が担っていますが、それらが無償であることの意味を可視化することでした。というのも、その構造を支えていたのは、「母性」や「無償の愛」といった「神話」によってコストを覆い隠す資本のロジックだったからです。
―医療や介護などの現場の負担は深刻です。これも無償の献身性の陰に隠れていた部分があります。
そうですね。患者や高齢者、子どもをケアする仕事も多くは低賃金で、また、ジェンダーや人種が偏っています。
コロナのさなか、イギリスのアーティスト、バンクシーが「ゲーム・チェンジャー」という作品をイギリス南部のサウサンプトン総合病院に寄贈しました。過酷な長時間労働に耐え、最前線で新型コロナウイルスと闘う医療従事者への敬意を示すと同時に、その横のゴミ箱にはバットマンやスパイダーマンが放置されていました。
これを見ると、作品のなかで子どもが手にする看護師の人形も同じように使い捨てにされてしまうのではないかという危惧を抱かせる構図になっています。福祉の予算が大胆にカットされ、圧迫された医療現場の現状は、現政権のみならず、それを容認してきた国民にも責任があります。
新自由主義的な競争社会では、数値に換算された金銭的交換が支配的になります。個別化、分断化され、他者と競い、他者を合理性や有益性によって功利的に測定するよう人々を培ってきた社会は、私たちから他なるものに対する想像力を剥奪してしまったのではないでしょうか。
そうした社会では、割が合わないと判断された人間は安易に切り捨てられ、孤立してしまいます。ですが、そのようにして切断され、喪失された信頼は、数字に還元できる計算可能なものでも、何かの対価でもない。お金で買うことができる「商品」ではないのです。
また、今日、各国で「通常」の生活への回帰が求められていますが、24時間7日間「眠らない社会」や不要不急の「ブルシット・ジョブ」に追われた「通常」に戻るべきかどうか、慎重に再考すべきです。
(続く)