いのちを金で切ることを公約で謳う 参政党
参政党は、参議院選挙の選挙公約において、「多くの国民が望んでいない終末期における過度な延命治療を見直す」との項目を掲げている。「終末期における過度な延命治療に高額医療費をかけることは、国全体の医療費を押し上げる要因の一つ」として、「胃瘻・点滴・経管栄養等の延命措置は原則行わない」「終末期の点滴や人工呼吸器管理等延命治療が保険点数化されている診療報酬制度の見直し」、さらには「終末期の延命措置医療費の全額自己負担化」などを主張している。
異常な政党公約
終末期医療のあり方はセンシティブな課題である。それだけに各党は慎重な公約を掲げている。
自民党は個人の意思・価値観を尊重する人生会議のガイドラインに基づいた取り組みを普及する、「自らの意向を踏まえた看取りを可能とする体制を整備」する(総合政策集2025 J-ファイル)、国民民主党は、「人生会議」を制度化した上で、尊厳死の法制化など終末期医療のあり方を見直し、本人や家族が望まない医療を控え、望む形の最期を迎えられるよう支援する(政策パンフレット2025)としている。また、日本維新の会は「尊厳死(平穏死)」について「賛否の意見を集めた幅広い議論・検討」を率先する(維新八策2025 個別政策集)としている。
終末期医療に関わる政策を示す政党において、‟医療費削減のために治療を打ち切る‟、‟完全自己負担にする”などという公約は見当たらない。お金でいのちを選別する参政党の公約は異常である。
生きる権利を国が奪う
そもそも、終末期の医療は、本人や家族の生き方に関わる問題であり、政治家が口を差しはさむべき性格の問題ではない。「全額自己負担化」の導入は、経済的にゆとりのない人から「生きる尊厳」を国家が強制的に奪うものにほかならない。お金がいのちの長短を決める思想・政策を政治家が掲げるようなことは到底許されるものではない。
想像力の欠如
政治家(政党)である以前に、人としての想像力の欠如も疑わざるを得ない。終末期は高齢者に限らず、がんや難病はじめ重篤な疾患にり患する全ての世代に関わる。終末期にある患者がただ生きているということだけで家族はじめ周囲の人たちが救われる事態が厳然としてある。終末が近い子どもと過ごす親、長年連れ添った相方との最期の時間、親しかった友人の看取りなど最期の過ごし方の“かたち”は人の数だけあり、一様に決められるものではない。終末期医療を“お荷物”“無駄”であるかのように見なして、事実上強制的な打ち切り(全額自己負担化)を求める主張は、人として想像力の欠如に尽きるものと言わざるを得ない。
「終末期医療が医療費を押し上げている」は事実誤認 医療経済学者
政策立案のベースとなる事実が示されていないことも致命的である。終末期医療が「国全体の医療費を押し上げる要因」になっていると言うが、データ・根拠は示されていない。
医療経済学者の二木立氏は、「日本では2000年以降は、マクロの医療費分析を行う場合は、死亡前1か月間の医療費に限定するようになっており、これの総医療費に対する割合は約3%にすぎないこと」が確認されているとした上で、終末期とは言えない「心筋梗塞や脳卒中等による急性期死亡の医療費」を除いた「『終末期』患者の医療費はさらに少ないはずです。私は1〜2%程度ではないかと見ています」と述べている。以上も踏まえ、二木氏は「終末期の医療が医療費を押し上げている、は事実誤認」としている(※1)。
個人を認めない政党の帰結
参政党の選挙公約では、「國體・国柄・国家アイデンティティ」と題して、「選択的夫婦別姓制度を認めない」「同性婚に反対」など個人の選択の自由を否定する主張が並ぶ。さらに、参政党が目指す「新日本国憲法(構想案)」(2025年5月作成)は、第1条「日本は天皇がしらす君民一体の国家である」(※2)として国民主権を否定した上、日本国憲法第13条で定める「すべて国民は、個人として尊重される」とした個人の尊厳に係る規定も消されている。そもそも、「国民主権」や「個人の尊厳」を認めない憲法案を掲げる同党にとって、個人の命に関わる終末期医療を打ち切る/制限することは、ある意味自然な政策的帰結である。
※1 参政党の医療公約「終末期の延命医療費の全額自己負担化」医療政策学者と検証する | 医療記者、岩永直子のニュースレター
※2 注釈において、「しらすとは、国民の実情を広く知って日本を治めるという意味の古語である」と記載。