軽視される改姓の痛み
根津 充(第3次選択的夫婦別姓訴訟原告)
何の疑問もなく 生きてきたが…
もともと僕は、結婚で女性が改姓することに何の疑問も持たずに生きてきた人間だった。生涯のパートナーと思い定めた相手から「自分の姓を捨てたくない」と切実な思いを聞いた時、それを抵抗なく受け入れられたのは、学生時代からの長い付き合いで、折に触れて男女の平等について彼女が話をしてくれていたからだろう。女性と全く同じく男性が改姓してよいのだし、改姓や通称使用の煩雑さに耐え、苗字を失う痛みを感じる側に立ってよいはずだと自然に思えた。
改姓を事実上強制されている女性たちはどんな「空気」の中を生きてきたのだろうと、女性の立場を男性に置き換えて想像してみる。
「男が改姓するのが当たり前。親類の目もあるからあなたが少し我慢すれば。ちょっとの不便で大げさな。通称使用もできるから大丈夫だよ」
あー、そんなことを周囲から言われたら、僕だったら悔しくてたまらない! それとも小さなことにこだわる自分がおかしいと思い始めるのだろうか?
改姓は「ちょっとの不合理や不便」?
改姓の痛みは表面的な激しさに欠けるせいか、どこか軽く扱われているように思う。
選択的夫婦別姓訴訟における2015年最高裁大法廷判決(21年大法廷判決もそれを踏襲)は、夫婦同氏以外を認めない民法の規定は憲法に違反しないと判断した。なぜそうなる? とあちこちで首を傾げてしまう判決文だが、根底に「改姓などたいした痛みではない」という60代男性判事たちの価値観があるからだろう(女性判事3人は皆違憲判断)。
判決に関わった山本庸幸元最高裁判事が今年NHKの取材に答えている。
「(改姓手続きは)面倒ですが、『結婚して姓が変わりました』と言えばいいだけの話で、どうしても耐えられないという程度の問題ではないですね。対応策はいくらでもあるわけです。ちょっとの不合理さや不便さを理由に、違憲判断はできないと思います。違憲というのはもう耐え難い状況で(略)発動すべきで、今の規定があるから結婚できないというものでもないでしょう」
自分が改姓しても同じことが言えるだろうか?
静かに自分を否定され続ける痛み
改姓の痛みは「生涯に渡って静かに自分を否定され続けるような痛み」ではないか。それもまた耐え難い痛みの一種だと思う。6月の口頭弁論で僕はそう訴えた。
軽視されてきたさまざまな「痛み」について近年急速に世論が変わってきた。加えて裁判官の世代も代わり、判例が覆る可能性はある。女性たちが訴えてきた改姓の痛みが当たり前に受けとめられるよう、微力ながら僕も一緒に闘っていきたい。
(全国保険医新聞2024年9月25日号掲載)
(ねづ・みつる)
仮名。第3次選択的夫婦別姓訴訟原告。同原告の黒川とう子と、改姓を避けるため2007年末から事実婚。中学生の娘がいる。訴訟を通じてたくさんの出会いがありパワーをもらっている。楽しみはベランダで飲むビール