
第107回(2025.6.15)
私の専門は何だったのだろうか
社会問題になっていた公害
私が医学部を志したのは、赤ひげ医者へのあこがれであった。臨床医になり、へき地などで住民と一緒になって地域の人々の健康を向上させるような仕事をしたいと思っていた。
その私が、公衆衛生への道へ進んだのは、1970年当時、日本の大きな社会問題となっていた、公害のためだ。水俣病、イタイイタイ病、大気汚染による喘息をはじめとする呼吸器疾患など、深刻な公害による健康被害を前にして、人の社会活動によって完治療方法がない健康被害を起こしているとき、医学は何ができるかと考えざるを得なかった。その時「それは予防であり、まさに公衆衛生なのだ」と大先輩の公衆衛生の先生から勧誘を受けた。
今も関わる新幹線公害
公衆衛生学教室へ入ってからは、さまざまな公害の現場に足を運び、健康への影響などを学び、調査研究にもまい進した。私のライフワークの一つになった新幹線公害にもそうした中で出合った。新幹線沿線のアパートは空き部屋が多いと保健婦さんが言っていたとの話を聞き、何かあるのではと調査を始め、深刻な騒音、振動問題を目の当たりにすることになった。沿線の住民の方と懇談を重ね、それが沿線の住民組織へと発展し、行政も巻き込み、名古屋市議会が国と国鉄に公害防止対策を求める意見書を出すに至った。それでも改善が見られず、公害の予防は住民運動の力で解決をするしかないと思い知らされた。そして名古屋新幹線公害訴訟を提起することとなった。
裁判は高裁の判決まで11年、最高裁での和解まで12年を費やし、私も地裁、高裁で証人にも立った。判決では、賠償は一
部認められたが、差し止めは認められなかった。その後の和解で、協定に基づくJR東海との話し合いは今も継続し、もちろん私も深く関与している。
私は環境活動家?
公衆衛生を離れて体育系大学に転職し、今度は公害問題を続けながらスポーツ医学に取り組むことになった。
大学定年退職後も、愛知県内を中心にさまざまな公害問題、環境問題に参加、関与を続けている。私を知る人の中には、私を医者ではなく環境活動家だと思っている方も少なくない。
私の専門は何なのであろうか。まあ、こういう医師もあってもいいのかな。

中川武夫
(なかがわ・たけお)
1944年名古屋市生まれ。名古屋大学医学部卒。公衆衛生学教室にて、環境と人の健康について学ぶ。84年から中京大学体育学部教授。2015年、中京大学を定年退職。現在、辻村外科病院勤務。「反核医師の会」代表世話人。「反核医師の会・愛知」代表。


